第198夜 梅雨とピアスと
「@#%$%&*」
私が横を通り過ぎるトラックの跳ね上げを避けるために後ろに飛び下がった時、彼が何かを言ったような気がした。後ろに下がらなかった彼はまともに側道に溜まった雨水を体の正面に浴びた。走り去ったトラックに文句を言いながら、一生懸命小さなハンカチで濡れたところを拭っている。私も自分のを出して手伝う。
「さっき何か言った?」
「いや、いいんだ。何でもない」
「ふーん」
彼とは仕事場で出会った。私が受付をしているジムに来ているお客さんだった。更新の手続きに迷っていた彼に私はリボーンコースを紹介した。40歳を迎える人に人生の折り返しのタイミングで身体の見直しと生まれ変わりを促すカリキュラムだ。体力増強のためだけにジムに来る人の多くはある時点で行き詰まる。体数値が上がることでモチベーションを失うのだ。そこで40歳にさしかかる頃にこのコースが有効になる。日々激務の世代、体力だけで乗り切ろうとすると無意識に疲労物質が蓄積されていき、気がついた時には疾病の形で現れてくる。せっかく体を鍛えてきたのに。だからそれをコントロールするというわけ。
・朝フレッシュ、昼スパイス、夜発酵食品のアーユルヴェーダを習慣化
・22時就寝、5時起床
・大きな木の下で1日3分間瞑想、呼吸はゆっくり鼻から吸って口から吐く
・過去は教訓にだけし固執せず、未来を頭中に描き続ける
これらを実践していく。
「生まれ変わったら、僕はどうなれるんでしょう?」
ジムのマニュアルではこういった質問には"新しい自分になれます"と応えるよう書いてあるが、彼の聞きたいこととは違う気がしたので、周りのスタッフに聞こえないくらい声を抑えて、
「今以上に魅力的になります」
そう応えた。そう、初めて話した時から彼には独特の落ち着きと溢れる優しさがあった。他の人はそう感じるかはわからないが、少なくとも私にとってはこんな人は初めてだった。ジムに来た時は必ずこちらから挨拶を欠かさず、休憩時間にはマシンウェイトの差し替えを補助したりして少しでも接するようにした。リボーンコースを半年ほど続けた頃、
「心にゆとりができて生活が一変しました」
彼は嬉しそうにそう言った。心のゆとりなんて、前から相当なものだったのに…。
「そして、できた隙間をあなたが占拠しています…」
「え…」
早朝の材木座海岸は犬の散歩をする人たちが往来する他は静か。特に凪の小潮の日は遠浅の汀が蒼空と雲を映し天然のオブジェとなる。
「ゆっくりとゆっくりと息を吐いて」
隣のマットで彼が目を閉じ横臥のアーサナに集中している。いつしか毎日こうして朝ヨガを一緒にしている。ビーチから歩いて3分ほどのところにある彼の部屋に転がり込んで3ヶ月になる。
「息を吐いた後は吸うんだよね? どうして僕らは空気が無きゃいけないのかな? さっき目を閉じていたら呼吸を忘れてたよ。それはヨガでは自然なこと?」
「ううん、呼吸を思いっきり意識しなきゃ。入ってきたものをゆっくりと末端まで通わせる意識でね。それが気を取り込む後押しをしてくれるの。あなたがそうして砂に体を預けているということは、空気ともうひとつの大事な気を吸収しているということなの」
彼は再び目を閉じてゆっくりと息を吸う。子供のように素直に、そして大樹のように大きく。上下する彼の胸をずっと見ていた。
ある雨の日、ソルダムを齧りながら彼が言う。
「一人になりたい」
意味がわからない。
「外はこんな土砂降りだけど、私外そうか?」
梅雨の真っ最中。浮世絵のように雨が線のように降っている。
「いや、そうじゃないんだ」
心臓が大きく脈打ち始める。あの日のトラックの時に言いかけたのがきっとこれなんだ。
「じゃあ…、私を嫌いになっちゃったの?」
「そうでもないんだ」
理解不能な彼の言葉に苛立ちが増していく。
「ちゃんと話してくれなきゃわからないわよ。何なの?」
彼は私の目を見ることもなく、
「一人の自分でいたいんだ」
そう言った。
「一生?」
「それは分からない。今は僕の周りが全て薄れていっているんだ。理由は分からない。自分すら生きているのかすら実感がないから」
あんなにも落ち着いた彼が、ノイローゼ患者のような虚な視線でつぶやく。
「どうしちゃったの? 病院に行く?」
彼は何も応えず窓の方へ歩いていく。片手をガラスに当てずっと雨を見ていたがしばらくして、
「とても眠い」
そう言って寝室へ消えた。心臓の鼓動は若干おさまったが、不可解さはおさまらない。
雨足はますます激しくなっていく。薄れていったと言われた私もこの雨の一粒みたいになってしまったのだろうか。あんまりじゃない。あんなに一緒に海を見て、話して、美味しい物を食べて、映画で感動して、泣いて、笑って、抱き合ったのに。ただ何となく今は一人にさせておこう、そう思った。彼の許容量がいっぱいになったんだ。いろんなことを受け入れて、そう私のわがままも。いっぱいになっちゃったんだ。余裕がでたら思い出してね、私のこと。片方のピアスを洗面台に置いてドアを出た。




