第196夜 夢現つの朝
尿意もなく目を覚ました未明。いや正確に言えば睡眠が停止したと言ったほうがいい。目は閉じられたまま、夢ではなく脳が意のままに働く、いわば真っ暗な洞窟に居るような状態。目を開けスマホを手にしてしまうと睡眠に戻ることが出来なくなる。何時なのかはわからないが、まだ横になっていたい体の欲求からすると2時か3時くらいだろうからこのままこうしていることにする。音も匂いも光もない。布団の暖かさだけが意識にあるが、それ以外の感覚がない状態だ。睡眠でもなく覚醒でもない3つ目の状態。本で読んだことのある瞑想でこそ至る状態というのが今ここにある。せっかくなのでこの得難い時を楽しむことにする。
身体の感覚とは別物の意識だけが働く状態というのは、すべての制限から解き放たれたような無限感があってなかなかいい。昼間田舎の母親と電話で話した亡き父のバイクの処分のことが蘇る。写真では見たことのある若き日の父が愛車に跨っている姿、それは海をバックに買ったばかりであろうピカピカのバイクを得た喜びの笑顔が写っている。撮影したのは母。結婚前のデートはいつもこのバイクだったそうだ。私が生まれてからは二人で出かけることはなく、もっぱら父が休日に私が寝ている隙に近所を走らせていたが、それも顰蹙を買ったようで倉庫から出す機会も減りそのままになっていたのだ。車を買ってもこのバイクを手放さなかったのは、“いつかまたあの日のように”という気持ちだったのだろう、母は邪魔だと言っていたが私には父の気持ちがわかる気がする。
洞窟の中の私は何かに運ばれているような意識を感じる。バイクではない、もっと有機的なものの中に包まれているような感覚だ。いや感覚ではない、意識だ。規則的なリズムで30センチほど体を持ち上げられては降ろされ…。そうだ、これは波だ。私は洋上にいるのだ。プカリと浮かんでただただ身を任せている。気持ちいいなどの感情は湧いてこない。やがてこのリズムが心臓の鼓動であることに気づく。急に意識が自身へと向かうと無限感がギュっと萎み窮屈さを感じる。先程まで波に浮かんだような意識を思い出す。するとまたあの意識が再開する。それは窮屈さと無縁の、これこそが無の境地なのだろうと思えてくる。別に悟りに至ったのではなく、単に束縛するものがないということなのだと思う。
そうしているうちにいつしか夢に堕ちる。屋上のオープンキッチンに沢山のウォッシュチーズ。放っておいたら動物にやられる。さてどうしようか? キャビネットをひとつづつ開けて探っていっても物がいっぱいで入れる余地がない。ずっと右往左往しているうちに目が覚めた。今度はカーテンの隙間から朝日が入っているからだろう、すぐに目を開いた。嫌な夢ではなかったが、困った夢だった。チーズはどれも美味しそうで、私はそれをちゃんと保管してゆっくりと食べていこうと思ったほど幸せな困惑だったのだ。そして妙な夢を見た時に必ず取る習慣に従いスマホで夢診断を開く。診断ではチーズは人脈、恋、金銭の象徴と言う。それらが過多であると。自覚はないが意識はそう思っているはずなのだから断捨離するしかない。
意思に反して見る夢はいつだって不思議な展開を繰り広げるが、瞑想状態では意のままになる。できるならずっとそこに居たい。若き日の父と語り合うことができる、さらには愛犬とも。とはいえ朝日が差し込む雑念フル稼働の中、所詮目を閉じたところであの状態に戻ることはできない。まだまだ私にとっての無の境地は自由自在とは言えなそうだ。




