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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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190/220

第191夜 2倍速の休日

「週末はまた山の家に行くから」

山の家というのはかつて母方の祖父母が住んでいた山梨の忍野村にある家のこと。もちろん母もそこで育ったのでメンテナンスがてらちょくちょく行き来をしていたが、90を迎え免許も返納したことで、行くのが億劫になったようで私が代わりを務めている。鎌倉からはゆっくり走って2時間。音楽を聴くにもオーディブルで小説を聴くにもそれなりに聞き応えのある時間だ。特にオーディブルの方は再生速度を早めることで2時間の再生量が大きく変わる。私の場合は1.3倍速。仕事の打ち合わせで衝突なくやり取りする時の心地いい会話スピードに近いと思われるからだ。

「気をつけてね。あんたも平日は毎日遅いんだから休日くらいゆっくりしてればいいのに」

「家にいるほうが休まらないんだって」

会社を定年後、シニア起業して3年。今は鎌倉の実家から東京のオフィスまで通勤しているが、そろそろ藤沢で一人で暮らす母を鎌倉に迎えなければいけないと思っている。となると妻にばかり面倒を見させるわけにはいかないので、オフィスの置き場をこちらに持って来なくてはいけないだろう。顧客が東京に多いのでそうしたが、この時代ほぼメールで済むので毎日東京にいる必要はない。

 ガットギターの柔らかな音色が車内を包む。この国産のSUVはPHEVなので電動走行中は静粛性が高く、BOSEの12個のスピーカーからの微細な音も邪魔されず聞こえてくる。通勤のBOSEイヤフォンもノイズキャンセリングがよく効いて音質は十分だが、空間の空気の振動を聞くという行為であるスピーカーでの音楽鑑賞はやはり別物と言える。そもそも空気の共鳴を使うガットギターの音とはそういうものだから。プログラムではなく現象。あまりにもプログラミングされたものが身を取り囲む毎日で、人間らしさを取り戻すことができるからなのか、現に象(すがた)を体感するのはほっとする。正確に言えばストリーミングでスピーカーから聴いていること自体ギターの音ではないのだが、まあいい。

「あなた、山の家のメンテナスとか言ってるけど、むしろ釣りの方が目的なんじゃない?」

出掛けに妻に鋭い指摘をされたが図星ゆえ、

「いや、ついでだ」

などと苦し紛れの返事しかてきなかった。

 梅雨時の庭は一週間で雑草が考えられないスピードで伸びる。これを放っておくと次回は釣りする暇もないほど手がかかるため、寛ぐ間もなく取り掛かる。両手を使う大きな生垣剪定鋏で根元辺りを切っていくと稲科の雑草は積み重なり、枯れ干上がるといずれ空きスペースを覆い、夏の猛暑での水分蒸発マルチングとなる。このところの猛暑は作物にも過酷で、繁茂して自ら影を作れないものはいずれ枯渇し絶える。補う水も追いつかない日々は張り巡らす根をも見捨てるのだ。ゆえにこの夏に向けひまわりの苗とゴーヤのネットを南側にセットした。これで日中の直射日光を幾分は和らげられるはずだ。

 さて、忍野の桂川だ。そろそろ虫も飛び始める頃だろう。つまり水面から羽化しようとしたり流下したりするそれを捕食しようとする鱒たちが活性化するタイミングということだ。すでに先週セットしたままにしておいた竿を軽トラの荷台に括り向かう。臼久保橋そばに車を停め下流を目指す。通称・金田一ポイントまでの区間がお気に入り。岩が連続する渓流の釣りとは違い、ここ忍野では正対した箇所から下流に毛鉤を流す。釣り人に慣れた鱒たちは不自然な動きの毛鉤には全く興味を示さない。それだけに釣り人は毛鉤から竿に繋がる釣り糸が水面の流れに引っ張られたりしないよう細心の注意と操作を工夫し、一番自然な方法、つまり毛鉤から先に流れるよう下流に流す方法を取るのだ。今週ずっと今日この時に飛びうる虫に想像を巡らし、昨夜巻いておいた#20のCDCピューパが流れに乗ったその時、水面が割れた。ネットに収まったのは尺上の虹鱒だ。ひとまずはこれで満足だ。

 休日とは仕事のない日を言うのか、体を休める日を言うのか、はたまた存分に遊べる日を言うのか…。寝て過ごす、やりたかったことを片っ端からこなす、どちらも間違いではないが私は圧倒的に後者だ。平日に溜まっていく仕事の疲れは風呂に入って睡眠時間を確保すればその日に解消する。かつてのような物理的に解消できない朝まで仕事は、デジタルによりなくなった。あとは酒場で管を巻くかどうかだが、もはや体力的にそれもない。金曜は予定を入れず早々に寝る。寝ることをも急ぐ休日、気ままな休日、その速度は2倍速がちょうどいい。やり残しが消えていくそのペース、やはりちょうどいい。

 

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