第188夜 冥土from heaven
人生でやりたいことをしておくことは大事。やり残したものを一つづつ探す。食べ物はまだしも、行ったことのないところをくまなく訪れるのは無理だ。そもそもそんな体力もない。だから地図を見る。国内のまだ見ぬ景色なんて山ほどあるから、手始めの神奈川だけでもなかなか終わらない。のどかな里山と思っていたところが航空写真モードで見るとゴルフ場を囲む森だったりして、俯瞰実写地図はなかなか発見の多い旅だ。橋を渡る時につい下の川を覗き込みたくなるものだが、それもできる。ストリートビューで上流側も下流側も自在に。
朝の畦道は露で少し靴を濡らすが、初夏の清々しさが勝り気にはならない。
「川の方はマムシがいるから気をつけてなあ」
ワケギを摘みに来た老女が曲げた腰を持ち上げながら言う。
「ありがとうございます。橋の上から小さな花が見えたので、田んぼを通らせてもらいました」
「なんてことない。気をつけなされ」
薮にかろうじてついた獣道のような隙間を抜けると、見えていた場所の少し下流に出た。流れは橋から見た以上に透き通っており、近づくと小さな魚たちが石の下に逃げ込む。河原の大石を渡りながら花のもとに向かう。立金花だ。黄色の花は虫を呼び受粉に役立つが見てる私たちには元気を与えてくれる。だからだろう、ついつい近づきたくなる。小さな甲虫が飛び立ち花弁が揺れている。
さて、次の旅先だ。実写地図画面をピンチインして神奈川全体を大写しし右人差し指で表示エリアを移動させる。三浦半島、毘沙門、江奈干潟。ピンチアウトして拡大する。地図撮影時は大潮の干潮だ。湾内の漁師小屋の突堤が大波か侵食の影響で崩れかかって危なそうだ。
「これは直さないのですか?」
「もう何年も使ってないんだわ。あんたもそこから釣りするのは構わんが気をつけてなあ」
おそらく干潟に棲息する甲殻類を狙ったクロダイが湾に入ってくるだろうが、漁師は老いすぎた。操舵は確かでも洋上の発作は不確かだ。そうして一艘づつ舟は湾から減っていく。
おそらく南仏カップマルタンの港でも似たようなことだろう。何もその土地を踏まなければいけないことはない。思い描くことが大事なのだ。モンゴルの草原でも、ジャカルタの喧騒でも、景色、人、生き物たち、肌に触れる空気や日差し、漂う匂い…、ストリートビューという窓越しに思い描く。体力がなくても、もっと言えばこの身が無くても、意識が描く景色は無限拡大する。それに帰結する。




