第178夜 人生の単複
「今から第二の人生の始まりだよ。じゃあな」
そう言って同期の長塚は去っていった。バブル入社組と呼ばれアフター5という放課後に浮ついて過ごすものが多い中、長塚はコツコツと就業時間に仕事を終えた後は街へ繰り出す事も無く帰宅するようなやつだった。聞けば7時に家に着いてから消灯するまでの5時間、読んでも読んでも消化しきれない本を読むのだと言う。給与の大半を書籍購入に費やすも身なりはいつも整えていた。
「一日24時間の半分が会社なのだからせめてもちゃんとしてないとな」
かつて長塚はそんなことを言っていた。ちゃんとというのは見た目に余計な悪印象を持たれないようにすることらしい。長塚らしい。彼が新人配属から定年退職まで一度も異動することなく働いた経理部では、匠の長塚と呼ばれていた。何かが上手いのではなく宮大工の隙間のない仕上げに似た隙のない仕事ぶりからそう呼ばれたのだ。そんな長塚は夜の付き合いが悪いことを除けば誇れる同期だった。
「第二の人生も読書三昧なのか?」
明日からは起きて寝るまでいくらだって読み続けられる。しかし長塚の答えは違った。
「おいおい、それじゃあ目の方が先に逝っちまうよ。もともと休日は平日のサイクルのまま夕食から寝るまでを読書時間として変えず、日中は別なことをしてたんだ」
長塚に趣味などあったのだろうか? 思えば長塚はインドア読書家にしてはいつもうっすら日に焼けていた。地黒なのだろうと思っていたが、まさかアウトドア派だったのか?
「まさかゴルフ?」
「本当にそう思うか?」
「いや…言ってみただけだ。家庭菜園とか?」
「これだぞ」
長塚は両手のひらをこちらに差し出し、甲側へもひっくり返してみせた。言う通り傷もゴツさもない、いわゆるお姫様のような手をしている。その後長塚は背広の内ポケットから小さな手帳を取り出しこちらに渡した。目でどうぞ開いて、そう伝えるので開いてみると規則的なブロック単位の漢字で埋まっていた。
「詩だ。漢詩。もう書き始めて20年以上になる」
全く知らなかった。まあ詩を書くくらいは空き時間にできそうだが、長塚はこの手帳を20年間で1000冊近く埋めて来たという。月4冊、つまりひと週末1冊ペースだ。雨の日は図書館や博物館、晴れた日は近所を散歩したり、たまに旅に出て書くそうだ。
「漢詩はいいぞお。定型という同じ弁当箱に惣菜が無限に日替わりするようなもんだ。どうだいいだろ」
言い得て妙だ。ページをめくれど目に入るものはひたすら漢字のブロックだが、注視すれば漢字内容は異なり、吟味するとブロックごとに表現する情景が浮かぶ。
「お前、今桃源郷のこと思ってただろ?」
図星だ。
「それはな勝沼に行った時のだ。あの日は夢のようだった。なんのことない郊外の道を歩いてみたんだが、辺り一帯が薄彩色の花樹で充満していて桃源郷そのものだったんだ。胎内壁の如し、なんて書いたけど胎児に視点なんてないだろうになあ」
そういって長塚は私の肩を叩いて、
「お前は後半年だな。そのまま会社に残るのか? どうしたって会社人生は終わりが来る。その後は俺と同じ第二の人生が始まる。いつ始めるか、その意味は何か、この半年で真剣に考えるといい」
早いか遅いか、再就職するならその差は5年ほど。60から85までとして、5年はその5分の1だ。私の場合は長塚のように毎日何かを続ける習慣はないので、引退後にどんな毎日になるかすら想像がつかない。おそらく今と同じ感じで毎日が日曜日になるのだろう。適当にゆっくり起きてテレビをつけて、飽きたら外に出て商店街をフラフラしてパチンコ屋に入り、ふて酒を飲んで寝る。まさに冥土までの暇つぶしみたいなもんだが、暇のつぶし方にも程がある気がしてくる。長塚みたいに読書をすれば知識も付くし想像の旅もできる。だがそれが習慣づかなかった自分にとっては重い。そのひたすら文字を追う行為はMRIの中に入っているかのような拘束感を覚えるのだ。何より老眼が進んだので掛けたことのない眼鏡をかけてまで拘束される気がしない。
「あなた、定年記念の海外旅行はどこにする?」
妻がしきりに計画したがるが、正直海外旅行など億劫で何の興味もない。遠い国まで狭い飛行機に詰め込まれ耐えるのも、妥協ないスパイス料理を食べるのも、1日中遺跡を歩き回るのももう避けたい。もちろん若い頃は好奇心がこの身を動かしまくっていたが、次第に展開が読めるようになってからは億劫さが先行するようになった。
「俺はいいから、友達とでも行ってくれ」
「あれ残念。じゃあどこに行こうかしら」
読まずとも聴くという手段に気づいた。近所をふらつきながらでもページがめくられる。拘束感がないし老眼鏡も不要で実にいい。聴き放題コースなので、通勤でも聴き始め今月はすでに3冊目に入った。
「お、これは長塚の漢詩ペースと同じじゃないか」
3か月経つとすっかり習慣になった。1.3倍速が丁度いいことを知ってからペースが上がり、月5冊消化するようになると小説だけでなくエッセイや評論までジャンルは広がった。ある引退したアナウンサーがエッセイでこんなことを書いていた。
「サンデー毎日(毎日が日曜状態を指すようだ)の中で私も悪戦苦闘しましたが、料理するのが一番いいことに行きつきました。かみさんは楽になる、私は好きなものを食べることができる、さらに新鮮な野菜が食べたくなり家庭菜園まで始めたら、それがもう楽しくて」
やはり家庭菜園か。土など子供の頃以来触ったこともないので全然ピンとこない。野菜を作る自分など想像もつかない。
またある女優はエッセイの中で、
「ある時、撮る側にまわってみたんです。別に映画を撮るわけではありませんが、カメラマンさんのカメラをちょっととだけ持たせてもらってファインダーを覗いてみたら、いつもスマホで撮ってるのとは別物で。ちょっと奮発して近い性能のを買ったんです。静止画でも動画でも、記録するんじゃなくて切り撮る感じで、能動的にその瞬間を生きている実感を得られるんです」
逆の立場になってみるかあ。ウィークデイは仕事だったわけなのでサンデー毎日に逆転するとして、私の場合は問題は休日の逆の行動だ。ダラダラしていたものをハリのあるものにしなくてはいけない。妻に任せていたことをこちらがやる、撮られていた立場が撮る側に変わるような変化…。オーディブルは今度はある財界OB重鎮の実録ポッドキャストを聴かせる。
「しばらくは現役時代の関係者が意見を聞きに来たり様子伺いに来てくれたが、1年もすると暇なもんで、何だか自分が無用な存在になったような気がして毎日が虚しかったよ。でねえ、深く深呼吸して茶を点ててみたんですわ。そしたらね、利休さんのことが無性に気の毒になってね。断ち切れない縁が続くってのはある意味不幸なんじゃないかと思たんですわ。いっそ全てを断ち切って、身ぐるみ剥がされたみたいになってみようと思って、住む者がいなくなった新潟の生家に行ってみたんですわ。もう湿気った煎餅布団やらホコリの被った鍋やかんしかないような有様でしたわ。だがね、常夜灯に照らされる天井の節模様見てたら思ったんですわ、“あんなに周りに人が多勢いた時期もあったけれど、本来人間は独りなんだ”ってねえ。そりゃあ東京には家族も孫たちも多勢いますよ。でもねえ、もともとは独りなんですよ、人間は。その孤独感とちっぽけさを思い知ってみるのは大事なことだ」
重鎮は少しも投げやりな様子はなく、その語り口は大物なりの達観した落ち着きだ。
「私は生家のあちこちを綺麗にして、当時兄からお下がりになった座り机に向かってみたんですがね、天面にはいろんな削り跡があるんですが、そこに梵という文字を見つけました。その時のことをなんと表現したらいいのでしょう確かに私の字で、すっかり忘れてましたがあの時の夢中な思いが蘇ったんですわ。学校で天体のことを習った時に宇宙は他に梵と呼んだりもすると先生が黒板に書いた文字がどうにも頭に染み付いて、何度もノートに書いていたんですわ。確か林の下に凡でなぜ宇宙なのかがわからんかったからだったと思いますわ。何度書いても分からん。それで調べた。凡は入れ物なんですわ、全てを収めるようなねえ。それで宇宙。それで無性に夜空を見上げるようになったんですわ。新潟の山里は当時満天の星ですよ。それが今も残っていた。朽ちかけた古家の庭先でずっと夜空を見てましたわ。それから梵、いや宇宙に一日中思いを馳せる毎日ですわ」
この人は確実に新たな人生をスタートしている。何も詩を書いたり料理をしたり、何かに挑戦などする必要もなく思いを馳せるだけで。いいじゃないか。仕事の課題解決みたいに答えを出す必要などない。ただただひたすら思うのだ。それだけでここまで惰性できた単線人生が複線に分岐するのだ。
定年日、後任者から花を渡され聞かれた。
「部長は完全に引退されるそうですが、これからどうされるのですか?」
私は迷いなく答えた。
「もちろん第二の人生へ行くよ」
社を出るとそれが無理なく自然に始まった。




