小さな家
七月九日
駅の近くに、小さな家がある。もう所々壊れてしまっているし、人も住んでいないのだろう。黒っぽくなった木製の壁にはツタが巻き付いている。まるでツタが家の生命力を吸って生きているかのように家全体を包み込み、秋はこいつも紅葉する。庭には金木犀の木が植えてある。土と雑草しかない花壇が玄関脇にあって、人が住んでいた頃はとても綺麗だったんだろうと思う。
暗い窓の中には、かつての生活がそのままになっているのだろうか。人間の腐乱死体が隠されていたりして。鍵はかかっているのだろうか。ちょっと中に入りかけた時、玄関から素敵な婦人が出てきた。
どうして。
驚いて下がった時、家の全貌が目に入った。そこにはさっきまでの廃墟ではなく、御伽噺に出てきそうな愛らしい家があるだけ。
……ふと、紅茶の良い匂いがした……。この家から出ているのだろうか?
婦人は私を見ると、にっこりと微笑む。そして手招きをする。「うちへいらっしゃい」とでも言っているかのようだ。あそこへ行きたい。招待されたのだから……行ってもいいはず……。
視界の右端に入る「四津島」の表札。婦人はその場から動かないで、私の方だけを見て微笑んで、手招きをしている。
違和感を感じた。どうしてずっと同じことを繰り返しているのだろう。
「あの、良い香りですね。紅茶ですか?」
思い切って声をかけてみたが、婦人は反応しない。まるで機械のように手招きを続けている。なんだか紅茶の良い香りも嘘くさく感じてしまって、すっかり行く気がなくなった。……これまで知らない人の家に入りたくなったことなんて、ないのだけど。
私を家に招きたいの?
足を一歩踏み出してみる。婦人は手招きをやめて、後ろを向き、玄関扉を開いて見せた。脇に立って、私に先に入るよう促している。……厭……行きたくない。そこだけ油絵具で塗りつぶされたみたいな闇。平面的で、触ったらそこで指が止まりそうに見える。
「あの」
婦人は反応しない。
「私、今は学生で……。知らない人の家に入っちゃ駄目って言われてるんです。だから、今度お母さんと一緒に来ます」
婦人は残念そうな顔をした。それでも、仕方ない、という風にこちらを見ている。
「そうよね。あの子に言っておくわ。またお母さんと一緒にいらしてね」
にこやかに微笑むと扉の中に消えた。私もお辞儀をして、敷地から出る。
私の脚は濡れていた。雑草の生い茂る場所に踏み込んだのだから、当然だろう。雨上がり特有の土の臭い。さっきまでの紅茶の香りはしない。素敵な家は消えていた。
帰り際。窓の中から視線を感じた。




