舎人阿礼(とねりのあれ)
阿礼の出仕は拍子抜けするほどに簡単だった。
昨年、乱によって即位した新しい大王に仕える舎人は不足していたのだ。
舎人とは単なる兵士ではない。
身分としては決して高くないが、時に大王の身辺に持し、宮中の警備や雑用を務める。そのような役割を任される以上、あまり出自のはっきりしないものを登用する事もできないので、大王に臣従する氏族から差し出される事に決まっていた。
天孫降臨から従う比売田氏出身で、猿女の同母弟である阿礼ならば身元に不足のあるはずがない。
小柄である事に難はあるが、眉目秀麗で狩りの腕も立つとなれば尚更だ。
最初、安麻呂に出仕を勧められた時、阿礼は必ずしも積極的ではなかった。歌う事の出来ない男である阿礼になし得る役目など、大したものとも思えなかったという事もある。
だが、真礼も安麻呂も京へ上ってしまえば、一人取り残されるような気持ちになるのも確かで、どうせなら一緒に京へ行こうという熱心な安麻呂の勧めに、結局は心を動かされた。
「どうして阿礼が舎人になるの。どうして京に行ってしまうの。」
阿礼の出仕に最も難色を示したのは沙伎だった。
さらさらとした髪を揺らし、阿礼が里を離れることをひどく嫌がった。
「ここから京は遠くないよ。なんなら沙伎でも行って帰って来られる。」
実際、比売田の里は京から近い。里人が京の市に買い物に出かけたり、逆に鹿皮だの山菜だのを売りに行くことも多い。
「知ってるわ。私が紡いだ麻糸だって、里でまとめて京みやこに売りに行っているもの。でも、比売田の里にいるみたいに会うのは絶対に無理じゃない。新しい歌を覚えても阿礼が聞いてくれないなんてつまらない。」
むずがる沙伎を、仕事に慣れればきっと度々帰ってくるとなだめ、その時は土産も買ってくると約束して、機嫌を取り結ぶ羽目になった。
「それまでに沢山歌を覚えて聞かせてくれ。俺も何か珍しい話を聴き込んでくるから。」
しかし、手を変え品を変え機嫌をとっても、沙伎のふくれっ面を、完全におさめることはできなかった。
舎人になるのに特別な仕度はそれほどにはない。荷物と言えば最低限の着替えに、水と屯食程度でいい。
猿女を輩出する比売田氏は京に小さな邸も持っているので、いざとなればそこを頼る事も出来る。
阿礼を育てた比売田大刀自は、阿礼にいくつかの文字を教えてくれた。
文字は大陸からの舶来の知識だ。京みやこでも読み書き出来るものはそれほど多くない。大刀自が文字の知識を持っているのは、大刀自もまた、かつては猿女として宮中に仕える身であったからだった。
「よいか。これが比売田という文字。」
地面を棒切れで引っ掻いて、大刀自が文字を書く。
「これが阿礼、お前の名じゃ。」
さらに大刀自はもう一組の文字を書いた。
「これが、真礼という文字。」
大刀自は三組の文字を何度も阿礼に書取らせ、しっかりと覚え込ませると、他に数をあらわす文字を教えた。
「わしも書見出来るほどの文字は知らん。あとは必要なものを追々覚えれば良かろう。全く知らんでは不便なこともあるからの」
阿礼が自分を「比売田阿礼」だと感じるようになったのはこれ以降だ。ここまで阿礼は文字を知らず、自分の名もただ音だけを知るのみだった。阿礼だけでなくたいていの者にとって、名とは、言葉とは耳で聞くものであり、目で見るものではなかっただろう。
文字というものを阿礼はひどく奇妙なものに感じた。
阿礼が文字の存在を知らなかったわけではない。京みやこからほど近い比売田の里に育った阿礼は、文字というものがこの世にある事を知っていたし、意味はわからなくても目にした事もあった。
だが今初めて自分や真礼の名という、知っている言葉を表す文字をそれとわかる形で知って、そのなんとも言えない違和感に戸惑わずにはいられない。
阿礼の知る言葉というものには、いつでも響きが添っている。歌の旋律はもちろんの事、音韻のない言葉はない。
だが、この文字というものの、どこに響きがあるのだろう。
阿礼の知る言葉が流れる水や降る雨ならば、文字はまるで積もった雪か、いっそ氷だ。
凍てついて硬く、揺らがない。
残念ながら書き慣れない阿礼の書いた文字はむしろ揺れて不格好だが、そういう問題ではなく、言葉を地面に縫い止めてしまう不自然さが、阿礼にそんな連想をさせた。
根回しや手はずを整えるために京にたつ数日前、沙伎が新しい衣を届けてくれた。沙伎の婆様と二人で急いで縫い上げてくれたらしい。
帰り道が暗くなるからと沙伎は急いで帰っていったが、阿礼はその心づくしを有難く荷に加えた。
出発の日、夜明けと共に里を出た阿礼は、大道から里を振り返った。堀をめぐらして柵に囲まれた里の家々は、屋根だけしか見えなかった。
都につき、舎人として出仕するための手続きをすれば、お婆がわざわざ文字を教えた意味はすぐにわかった。
まず示された竹簡に名前を書かなければいけない。拙い文字ながらもなんとか書くことができた事に阿礼はホッとした。
正式な出仕をする前から、阿礼は舎人として仕えるための心得をたたき込まれることとなった。
武芸一般に礼儀作法、更には最低限の読み書きが求められる。名前と数だけしか読み書きできない阿礼ではあったが、それが特に例外的というわけでもなく、同じ年頃の若者と共に学ぶ生活にすぐに馴染んだ。
ただ、真礼はもちろんの事、安麻呂とも当初思っていたほどに会えるというわけではなかった。
猿女の真礼は当然宮室の奥深くから出ることはなく、楽人の安麻呂も舎人とはかなり仕事の場が違う。
それでも安麻呂は折を見ては阿礼に会いにも来てくれ、京みやこに不慣れな阿礼の無聊を慰めてくれた。
阿礼と安麻呂で京に上った時期は大して変わらないはずだが、安麻呂は何年も「遠の朝廷」たる太宰府のある筑紫で暮らした経験がある。たまさか京みやこの市を冷やかす程度だった阿礼に比べて、京みやこでの暮らしに馴染むのが早い。
阿礼が正式に舎人として出仕した後も安麻呂と話したり、飲み交わしたりする折はあったが、真礼の事はあの辺りにいるだろうという事がわかっただけで、それこそ影を見かける機会もない。
同じ都に双子の姉弟がありながら、顔を合わせることもないままに、いくつもの季節が過ぎていった。




