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芽吹き

 阿礼が帰って行ってしまった森の道を睨みつけていた沙伎は、プイッと振り返ると家へと走り始めた。

 「沙伎ちゃん元気だねえ。」

 「どうしたんだい。」

 方々からかかってくる声も無視して家に駆け込む。家では沙伎の婆様が麻糸を紡いでいた。

 「どうしたんだい沙伎。阿礼はどうしたね。」

 婆様にも答えずに奥の部屋にたたまれていた上衣を被る。上衣といっても元々は沙伎の亡き母のもので、沙伎が寝る時に被いでいるものだ。

 「やれやれ拗ねておるのか。阿礼と喧嘩でもしたかね。」

 喧嘩なんてしない。喧嘩できるはずがない。阿礼に比べると沙伎はまるっきり子供で、喧嘩なんて対等の関係は成り立ちようがない。

 「それで阿礼は帰ったのかね。」

 そうだ。阿礼はさっさと帰ってしまった。安麻呂とか言う人と一緒に。

 「おや安麻呂が来てたのかい。それは阿礼が帰ってしまうのも仕方がないね。」

 婆様は安麻呂を知っているらしい。

 「安麻呂は多氏に嫁いだ比売田の大刀自どのの妹の孫でね。しばらく大刀自どののおてもとにおったのさ。だから大刀自どのの養い子の双子とは兄弟のように過ごしておったよ。」

 今日会った安麻呂という人がしばらくでも阿礼と一緒に育ったというのは、なんだか不思議な感じがする。

 だって阿礼は綺麗だ。

 ほっそりとして、あまり大きくなくて、とても柔らかな声をしている。

 安麻呂と言う人はとても大きかった。背がとても高くて、野太い声をしていた。阿礼とは鹿と熊ほどに違うと思う。

 沙伎は阿礼の声が好きだ。

 響き合いの良い声を聞いていると、ふわりと包まれるみたいで心地良い。あの声なら歌っても素敵だろうと思うのに、阿礼は決して歌わない。歌わないけれど柔らかな声で、物語を話してくれる。

 沙伎はその物語が好きで、阿礼の声が好きで、阿礼が好きだ。だからいつもよりも早く阿礼を連れて行ってしまった安麻呂の事が、いっそう気に入らなかった



 阿礼は決して歌わないけれど、阿礼の双子の姉という真礼の歌なら、沙伎も聞いた事がある。前の秋の祭りでだ。真礼がもうすぐ猿女として京みやこに上ると言うことで、祭りはいつもにもまして盛大で、沙伎も覗きに行ったのだ。

 真礼は怖いほどに美しい、澄み切った声で歌う人だった。

 歌も、舞も、声も、姿も、あまりに美しくて、魅了されて、息をつくことも出来ずにただ見つめている事しか出来ない。

 袖が、被礼が翻る。

 手巻の鈴が鳴る。

 そして朗々とのびる声、言葉。

 紡がれる言葉、言葉、言葉。

 歌い上げられる物語。

 なんて、なんて、なんて!

 胸の内側から切りつけられるような痛みが貫く。

 あの時沙伎は、美しさというものが時に人を傷つけるのだと知った。

 美しすぎるという事はきっと人の領分を超えるのだ。人の領分を超えているから、人に痛みをもたらしてしまう。

 沙伎にはあんな歌は歌えない。

 沙伎もまた里の伝承の継ぎ手ではあるけれど、どれだけ練習したところであんな歌が歌えるとは思えない。

 どうすればあんなふうに歌えるようになるのだろう。

 そんな疑問は湧くけれど、沙伎自身が真礼のように歌えるようになりたいかと言えばそんな事はない。

 沙伎が歌うのは伝えられた神々の物語だ。

 物語の中で神々は、誰かを好きになったり、何かを目指して頑張ったりする。そして人と同じように、笑ったり、泣いたり、怒ったり、時々失敗したりするのだ。

 沙伎はそんな神々が好きだ。

 その好き、という気持ちを込めて物語を歌う。そしてそんな気持ちはきっと、あんなにも美しすぎる歌にはのせられない。

 どうすればあんなふうに歌えるようになるのだろう。

 美しくて、美しすぎて、それ以外は何もないような、痛いくらい美しい歌。

 それを歌う真礼が、沙伎には少し怖い。


 

 沙伎が阿礼に出会ったのは、秋の祭りの少しあとだ。手伝いに来てくれた比売田の里人の男たちの中で、阿礼はとても目立っていた。

 小柄で、とても綺麗で、まるで男ではないようで。

 そしてあの美しすぎる歌を歌う真礼ととても良く似ていた。

 最初はちょっと怖かった。

 普段見慣れない大きな男たちとは違う意味で。

 だって本当に阿礼は綺麗だった。

 ぬばたまの黒髪も、どこか寂しげな黒目がちの目元も、スラリとして滑らかなその仕草も。

 そしてやっぱり真礼と似ていた。

 だからとても気になってはいたけれど、沙伎は近づく事はしなかったのだ。偶々話す事がなかったなら、今でも遠巻きに見ているだけだったかもしれない。

 きっかけは沙伎が猪とかち合ってしまった事だ。

 あとから聞けば若いメスだったというから、それほど大きくもなかったのかもしれないけれど、いきなり飛び出してきた猪はとてもつもなく大きく感じられた。

 びっくりしてすくむ沙伎の事なんか放っておいてくれればいいのに、猪はまっすぐ沙伎を見た。背に折れた矢が刺さっていたから、猪も逃げていたのだろう。その日は比売田の衆も一緒の狩りの日だった。

 すくんで猪と向き合う沙伎の前に、次に飛び出してきたのが阿礼だ。阿礼はすぐに弓に矢をつがえ、猪を射た。

 矢は、当然のように猪のこめかみに刺さる。

 ぐらりと揺れた猪の喉元に素早くとどめの刃をくれて阿礼が離れると、猪はどうっと倒れた。

 「怪我はないか。」

 猪が倒れると同時に足の力が抜けて座り込んでしまった沙伎は、その言葉に黙って首を横に振った。

 その頃になってやっと、阿礼のあとを追って男たちが現れる。 

 「仕留めたか。」

 一人の言葉に阿礼はうなずいて猪を指差した。

 「危なく子供に襲いかかるところだった。この子を家に帰すから、猪を川にさらしてくれ。」

 男たちが猪に縄をかけ、川の方へと引いてゆく。

 阿礼は沙伎のそばに膝をつき、沙伎の手をとった。

 「怪我をしているぞ。痛くないか。」

 言われて見てみると、左の甲をざっくりと切っている。いつの間に怪我などしたのだろう。

 気づくのを待っていたように、傷はズキズキと痛みはじめた。沙伎の目からポロポロと涙がこぼれる。

 阿礼は腰の竹筒の水で沙伎の傷を簡単に洗い、そのへんに生えていた血止めの草を揉んで貼り付けてから、もっていた縄を巻いてとめた。

 「まずはこうしておこう。家でちゃんと手当てしてもらえばいい。ええと、大刀自どのの家の子だな?」

 阿礼は沙伎を背負うと歩き出す。阿礼が沙伎の家を知っていることを不思議だとは思わなかった。里には本当に子供が少ない。だから里に出入りする者は、誰がどこの子供かすぐに覚えてしまうのだ。

 「沙伎だよ。」

 「ん?」

 名乗るのが唐突だったからか、聞き返された。

 「私の名前。沙伎っていうの。」

 「そうか。俺は阿礼だ。」

 阿礼は家に帰るまで、とりとめのない色々な話をしてくれた。阿礼の声は柔らかくて、心地良くて、左手のズキズキする痛みから沙伎の気持ちをそらしてくれる。家に帰りつく頃には沙伎はすっかり阿礼の声を好きになっていた。


 





出会いから阿礼を挟んでなんとなく気に入らなかった安麻呂を、その後沙伎は本当に嫌いになった。


 阿礼が舎人として京みやこに上がる事になったと聞いたからだ。


 きっと安麻呂がけしかけたに違いない。


 沙伎の確信は直感というよりも偏見に近かったが、結果的に間違いではなかった。多氏の嫡子として京みやこに上る安麻呂の勧めで、阿礼は舎人として出仕する事を決めたのだった。


 


 





 





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