再会
沙伎の声は甘い。そして柔らかい。
その甘さ、柔らかさは声の透明感を損なうが、包み込むような歌は心地よい。まだまだ拙くはあるが沙伎は良い歌い手になるだろう。
沙伎の歌を聞いてやる時間は、阿礼にとっても好もしい時間だった。
自身の声を失い、双子の真礼も去った事でどこか虚ろだった阿礼を、沙伎の歌が埋めている。
森の端に住む沙伎の一族もまた伝承を伝える一族だ。比売田とは出自の違う一族ではあるが、伝承を伝えているという共通点が両者を結びつけ、漂泊していた沙伎の一族が定住する縁となったのだそうだ。
沙伎の一族は出雲という地から来たのだという。
もっとも、そんな話は沙伎も阿礼も、比売田大刀自のお婆でさえも生まれるはるか前の話で、単にそういう伝承が残る村というのに近い。それでも沙伎の村では一族の子女に伝承を歌い習わせて残していた。
「すごくいっぱいあるんだもの。とても覚えきれないわ。」
沙伎はそんなふうに口を尖らせもするが歌うこと自体は好きなようで、習った歌をいつも阿礼に聞かせてくれる。
阿礼は何度でも沙伎が歌いたいだけの歌を聞いた。沙伎の歌を聞くことが、歌えなくなった阿礼にとって、何よりの慰めだった。
「ねえ、阿礼も何か話して。」
沙伎は阿礼に物語をねだる。声を失って以来歌わなくなった阿礼も、真礼の歌から聞き覚えた物語をとつとつと語りはする。そんな風に順繰りに、歌ったり話したりする事を二人は好んだ。
安麻呂の訪れを受けたのもそんな時だ。数年前、筑紫に旅立ったきりだった安麻呂はがっしりと背の高い青年になっていた。
阿礼にとって安麻呂は忘れ難い友だ。
同じ比売田の者には知られるわけにいかない歌や舞を、安麻呂だけには見せていて、しかも安麻呂が行ってしまったしばらく後に、声を失ってしまったのだから。
「阿礼、俺だ。多氏の安麻呂だ。」
大きな声に振り向いて安麻呂の顔を見た途端、阿礼の中から多くのものが溢れた。
真礼と一緒に歌い舞った日々。
声を失い、体付きも変わって、もはや歌うことも舞うこともできなくなった事。
猿女の黥を目元に入れて、京へ向かう真礼を見送ったこと。
目元に消し炭で線を引けば、水鏡に映る自分の顔が真礼の顔に見えた事。
一瞬で溢れたものが、次の瞬間にまた阿礼の内へと封じ込まれる。阿礼は笑い、近づいてくる安麻呂を迎えた。
「久しぶりだな安麻呂。筑紫からいつ戻ったんだ。」
抱き合い、肩を叩きあう。
安麻呂は本当に大きく立派な男になった。
安麻呂に比べれば阿礼は女で通るほどに小柄で線も細い。
だが、それでも阿礼は確かに男で、猿女になる資格をもたなかった。
阿礼の声を聞いた安麻呂の表情に、戸惑いとかすかな失望が浮かぶ。
安麻呂と別れたのは声変わりの直前だった。阿礼と真礼の性別がなぜちがうのか不思議なほどに、よく似ていた最後の時期だ。
安麻呂に会わなければ良かったと密かに思う。それは安麻呂が阿礼に失望した事に傷ついたからではなく、安麻呂の中に生きていたであろうかつての阿礼が、失われたに違いない事を惜しんだからだった。
「お前…でかくなったなあ。」
つくづくと見上げても安麻呂は大きい。阿礼と頭一つほども違う。元々背が高い方だったが、今ではたいていの男よりも背が高い。外国とつくにの食べ物も多くあるという筑紫で、何か背の伸びるようなものでも食べていたのだろうか。
「こっちへ戻ってからみんなに言われるよ。筑紫で何を食ってたんだって。」
誰でも同じような事を思うのか、安麻呂はそんな言葉は言われ慣れているらしい。
「阿礼…」
声に振り返ると、沙伎が戸惑った表情を浮かべていた。
「沙伎、こいつは昔、しばらくうちにいた安麻呂だ。筑紫から帰ってきたらしい。安麻呂、沙伎はこの里の大刀自の孫で、里の語り部を継ぐ娘だ。」
おずおずと近づいて来た沙伎が、ぎゅっと阿礼の着物を握る。同じ年頃の女児の中でも小柄な沙伎には、大きな安麻呂が怖いのかもしれない。
なだめるように沙伎の髪を撫でると、沙伎はさらに強く阿礼の着物を握った。今日は安麻呂を連れて早めに帰った方がいいだろう。
「しばらくいるのだろう。筑紫の話をたくさん聞かせてくれ。」
阿礼はそう言うと沙伎をさり気なく安麻呂から離した。年寄りばかりの里に育った沙伎は若い男に慣れていない。比売田の里人でも、懐いている阿礼以外の男にはほとんど近づかないほどだ。
「今日はもう帰ってしまうの?」
拗ねたように言われても、久しぶりに再会した安麻呂を一人で比売田に帰す気にもなれず、阿礼は沙伎を宥めながらその辺に置いていた道具をまとめた。
再会した事で安麻呂の内に残っていたかつての自分が失われた事は惜しいが、昔馴染との再会を喜ぶ気持ちの方がもちろん強い。阿礼は道具を手早くまとめるともう一度沙伎の髪を撫でて、安麻呂と共に帰路についた。




