比売田(ひめだ)の双子
大道を行くと見覚えのある門が見えてきた。周囲に堀を巡らせた里の形はこの辺りでは珍しくない。
安麻呂は懐かしい気持ちで門番に名を告げ、里の内に入った。真っ直ぐに中央に建つ大きな家の方へと向かう。
「大刀自様、いらっしゃるか。俺だ。多氏のヤスだ。」
声をかけてしばらくすると、戸口に記憶通りの老婆が現れた。
「おお、久しぶりだのう。元気にしておったか。」
記憶の中の比売田大刀自は威風堂々とした老婆だったけれど、今見てもその印象は変わらない。安麻呂の背が伸びた分、見下ろす視線になっただけだ。そして見下ろすようになったところで、全く勝てる気がしないところはまるで変わらない。
「俺は元気だ。大刀自様も元気そうだな。」
安麻呂がそう言うと、比売田大刀自はカカと笑った。
「この年になりゃ、元気でなければ死んどるよ。ありがたいことにわしはピンピンしとる。」
数年前、安麻呂は祖母の姉だというこの比売田大刀自のもとに、しばらく預けられていた事がある。
その間、比売田大刀自が養育していた双子と、兄弟のように過ごした。筑紫から畿内へ戻るとなって最初に浮かんだのがその比売田の双子だ。彼らは安麻呂にとってはこの上ない友であり、限りない憧れの対象でもあった。
「ところで、阿礼と真礼は元気か? どこにいるんだ?」
問いかけに、比売田大刀自が答える。
「元気じゃよ。阿礼は山の端の方に手伝いに行っとる。あそこは若いもんが少ないからの。真礼はもうここにはおらん。この正月に猿女として宮中に上がったわ。」
その返事に安麻呂はやや気落ちしたが、すぐに気を取り直した。
「山の端って森を抜けた向こうの村か? 麻布を織るのが得意な。」
里の東を少し行ったところから広がる森は、実際よりも不思議に深く感じられる森で、安麻呂にとっては慣れた遊び場所でもある。森を抜けた向こう側に古風な小さな村がある事も知っていた。
「そうじゃ。この間の雨で畦の崩れたところがでたそうでな。阿礼が様子を見に行っとるよ。」
安麻呂は比売田大刀自に土産を押し付けると、里の裏の塀の切れ目から里の外に出た。堀と塀に囲まれた里の裏の、堀が少し狭くなっているところには板が渡されて、裏口のようになっている。
里を抜けて田の畦を辿りながら少し行くと森の入り口で、踏み分け道を道なりに進めば村に出る。村は比売田の里よりは新しく、簡易な堀を形ばかり巡らせていた。
そのくせ田に生えているのも概ねは米でなく、稗や粟ばかりが目立っている。最近では稗など稲田の雑草として引き抜かれることも多いのに、そんなところもひどく古風な村なのだ。
阿礼は村の小さな広場で、女童が歌うのに耳を傾けているようだった。
「阿礼、俺だ。多氏のヤスだ。」
大きな声で怒鳴ると阿礼が振り向いた。安麻呂を見て顔をほころばせる。なだめるように女童の頭を撫でて、それから安麻呂に手を大きく振った。
「久しぶりだなヤス。筑紫からいつ戻ったんだ。」
抱き合い、肩を叩きあう。
覚えていたよりもずっと阿礼の身体は硬く、しっかりとしていたが、男の割には小柄で線の細いところは変わっていない。繊細な顔立ちは女でも通りそうだ。
ただ声は、ずっと低くなっていた。柔らかな美声だが、透き通るような響きは消えている。
わかっている、阿礼ももう十七だ。声変わりしないはずがない。それでも安麻呂はその声に、真礼がいないと聞いたときよりもずっと強く、気落ちせずにはいられなかった。
「お前…でかくなったなあ。」
阿礼の方は安麻呂を見上げて嘆息した。男としては小柄な方の阿礼と、かなり背の高い方に入る安麻呂は、はっきりと高さが違う。阿礼の背は安麻呂の肩を少し越したぐらいしかない。
「こっちへ戻ってからみんなに言われるよ。筑紫で何を食ってたんだって。」
失望を顔に出さないように笑う。
変わらないものなどきっとこの世にない。
そんな事は既に思い知っていたはずだ。
それでも自分の中の阿礼が、どれだけ大きな存在だったのかを思い知る。
数年前、比売田の里で、安麻呂はありえないほど美しいものに触れながら暮らしていた。
「二人とも、待った?」
息を弾ませて真礼が駆けてくる。
「真礼、喉に悪いよ。息が落ち着いてから喋らないと。」
心配そうにそう語りかける阿礼と、駆けてきた真礼。二人はどちらがどちらかわからないほどによく似ている。
それもそのはずで、二人は双子だった。
顔立ちも、背の高さも、声も、本当によく似ている。違うところといえば一つだけだ。
真礼は女で、阿礼は男だということ。
最初、比売田大刀自に引き合わされた時、安麻呂は二人のどちらもが少女なのだと思った。まさか二人の性別が違うとはとうてい思えない程に、二人はそっくりだったからだ。阿礼が男だと聞いた時の驚きは忘れる事ができない。
「それで今日はどんな歌を習ったの?」
阿礼が用意していた竹筒の水を真礼に渡しながら聞く。真礼は喉を鳴らして水を飲み、ひと息つくと歌いだした。
比売田の職能である猿女は宮中に仕える巫だ。伝承を継承し、祀りや御門の求めに応じてそれを伝える。全ての伝承には当然歌うべき節があり、舞なども付随するので、歌は猿女に必須の能力だ。
そして猿女なれるのは女だけと決まっていた。
理由は声だ。
天に届く透き通って高い声を出せるのは女だけなのだから、女が歌う。だから歌を習う事ができるのは双子の内、真礼の方だけだった。
しかし、安麻呂の見るところ、歌う事により熱心だったのは阿礼だ。阿礼は真礼から歌を習い覚え、森の中で真礼と一緒に歌っていた。
歌だけではない。真礼の舞うのを見様見真似で覚えた阿礼は、舞でさえも真礼と一緒に舞った。
森の木漏れ日の下で声を合わせて歌い、一緒に舞う双子は美しかった。
透き通る声は天へと駆け上り、きっと神々に届くだろう。舞は神々の目を喜ばせるに違いない。
そう確信せずにはいられないあまりに美しいものに、安麻呂は浸りきっていた。
筑紫へ行くために比売田を去ると決まった時は悲しかった。あれほどに美しいものが、他にあるとはとうてい思えなかったからだ。
実際にそれは正しかった。
筑紫で安麻呂は多くのものを見、体験もしたが、ついに比売田の双子の歌や舞より、美しいと思えるものには出会わなかった。
「しばらくいるのだろう。筑紫の話をたくさん聞かせてくれ。」
阿礼はそういうと里に戻るために、持ってきた道具を取りに行った。女童が話しかけるのに答えながら、そのへんに置いてあった道具をまとめてゆく。その動きの一々が淀みなく、まるで流れるようになめらかだ。
阿礼は今も美しい。
だが、すでに声は失われ、身体つきも硬くなっている。それはあの美しい歌も舞も、すでに失われてしまったのだと言うことだ。
比売田の双子の歌と舞。
それは今も安麻呂の中で至上だった。
その至上が失われたということを、安麻呂は悲しまずにはいられなかった。




