物忌
阿礼が歌っている。
どうしてそう思ったのかわからない。
だけど、阿礼が歌っている。
阿礼の歌の気配がする。
阿礼はきっと泣いている。真礼にもその事はわかっていた。
沙伎が死んだ。
山狗にさらわれて、出てこなかった。
割れた櫛と血痕だけが、道に残っていたらしい。
最初に真礼が感じたのは、慟哭に似た阿礼の叫びだった。もう三日も前の事だ。
阿礼は猛っていた。猛り狂っていた。
強すぎる感情もまた障りとなる。真礼は神前を辞して、何があったのかを調べさせ、それから安麻呂が動けるように手配をした。
真礼は行けない。
山狗が狩った里。
山狗を狩る人々。
何もかもが穢れになる。真礼が身をさらせるはずがない。
しかし。
阿礼が猛っている。
阿礼が泣いている。
どうして放っておけるはずがあるだろう。
阿礼はたった一人の同胞なのだ。
だから安麻呂を送る事にした。
安麻呂は真礼の同胞ではない。
同じ里の里人でさえない。
比売田の血を僅かにひく、多氏の嫡子である彼は、それでも阿礼に関する限り、真礼の同志だった。
一度も確認しあった事はない。
だがわからないはずもない。
あの美しい、天へと舞い上がってゆく歌。
声を喪う前の、阿礼が歌い上げた物語。
姉弟だけの秘密であったあの歌を、ただひとり知っている者。
条件さえ整えれば、きっと安麻呂は行ってくれる。行って、阿礼を支えてくれるだろう。
真礼は考えられるだけの手を打った。
安麻呂が動ける条件を整え、許可されているより伸びてしまうであろう阿礼の休暇に、問題がないように手を回した。阿礼は沙伎に心を寄せすぎている。いつまでも比売田に置かないほうがいい。
全てを手配すると、真礼は重い物忌に入った。
阿礼の穢が伝わる間、神に仕えるわけには行かない。
真礼は部屋に忌み籠り、ただ阿礼の気配を追った。
阿礼は歌っている。
死者に近すぎるほど心を寄せて。
天へ舞い上がる声を失った阿礼の歌が、美しいはずはない。
そうでなくとも長く歌を通さなかった喉は、息をためなかった腹は、なめらかに声を紡ぎはしないだろう。
だがそれでも、真礼は阿礼の歌が聞きたい。
天へ上る力はなくとも、黄泉へなら届くのではないか。
美しくはなくても
伸びやかでなくても
かすれ、途切れがちであろうとも
黄泉への旅路に手向けられる、もはや舞い上がる声を持たない阿礼の歌。
それを聞きたいと真礼は思った。




