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 沙伎が遺した人形は薄紅の上衣に萌黄の裙を着ていた。沙伎が縫い上げた衣装だ。春らしい装いは春を待つ心で選んだのだろう。領巾は細かな模様の蝋纈で、どれも見覚えのある布だった。かつて(みやこ)の市で阿礼が求め、沙伎に贈った布だ。

 どれも高価というほどの土産ではなかった。領巾の蝋纈など、もう使いみちを考える方が難しいようなこより布で、たしかおまけでついてきたのだ。

 人形に新しい着物を縫って喜んでいる沙伎の笑顔は好きだったが、阿礼が着飾らせたかったのは本当は沙伎の方だった。

 最初に贈った櫛は割れてしまった。

 贈るはずだった銀の簪は、割れた櫛と共に沙伎の骸の代わりに弔われている。

 阿礼が作った桜貝の簪は、どこからも見つからなかった。

 もしかしたら攫われて、消えてしまった沙伎と共にあるのだろうか。

 沙伎の里は滅びた。

 沙伎も、沙伎が受け継いでいた物語も失われた。

 いや、違う。

 物語はまだ残っている。

 聴き覚えた阿礼の中に。

 阿礼の唇が開き、喉が震えた。

 長く、歌う息を通さなかった阿礼の喉も唇も、ぎこちなくしか働かない。まして腹の底にまで、息の通るはずがなかった。

 切れ切れに掠れた声で、ほとんど無意識に阿礼が歌う。

 沙伎が歌っていた物語。気に入っていた物語。

 もはや天へ登る声を失った阿礼が歌っても、物語は舞い上がらない。

 ぱたりぱたりと地へ落ちてゆくばかりだ。

 それでも阿礼は歌う。

 呻くように、吐き出すように、慟哭するように。

 喉がかすれる。

 唇が乾く。

 それでも阿礼は唾を飲み、唇を湿して歌い続けた。

 阿礼が帰って来るたびに沙伎が歌ってくれた物語。

 沙伎はいつでも阿礼の帰りを、心から喜んでくれた。

 なぜ、もっと帰ろうとしなかったのだろう。

 なぜ、もっと会おうとしなかったのだろう。

 なぜ、通ってしまわなかったのだろう。

 あんなに喜んでくれた桜貝の簪を結納に、沙伎に妻問えば良かったのだ。

 妻問って、いっそ京で共住みしていたなら、こんな形で沙伎を喪う事もなかったのに。

 阿礼は歌う。

 もはや歌と呼ぶに値しない歌を。

 空へ上る力もなく、ただぱたりぱたりと地へと落ちてゆく歌を。

 いつの間にか、傍らに安麻呂がいた。

 もしかしたらずっといたのかもしれない。

 繋げた竹簡を広げ、猛然と何かを書き取っている。

 阿礼が歌う。

 安麻呂が書き取る。

 地へと落ちる物語の亡骸を拾って埋葬でもするように、安麻呂は阿礼の歌う物語を書き留めているのだった。

 阿礼が歌い止んだ時、安麻呂はとおに竹簡を使い切り、通りがかりの里人に集めてこさせた焚付の木切れや何かをうず高く積み上げていた。そのどれにも走り書きの筆跡が見える。

 安麻呂はそれらの走り書きの山を、懐から出した布で包んだ。全てはとても包みきれずに紐でもからげ、それも無理な分を袖に包むように抱える。

 「阿礼、手伝ってくれ。」

 阿礼は言われるままに、安麻呂が抱えきれなかった分を抱えた。言われるままに比売田の里まで運ぶ。お婆の館の阿礼の部屋まで運びこんだ。

 「どうするんだ。」

 運び終えて、初めて阿礼が口をきいた。

 「清書する。」

 安麻呂が答えた。

 「燃やさないのか。」

 阿礼はなんとなく、燃やすものだと思っていた。

 これらはもう舞い上がることのない物語だ。唯一覚えている阿礼には歌うことも伝えることもできないのだから。

 「燃やしてどうする。」

 安麻呂の答えは明快だった。

 「清書して、誰でも読めるように調える。そうすれば物語があった事は残る。」

 消えてしまった里の、消えてゆく物語を文字を使って書き留めるのだという。

 墓だ、と阿礼は思った。

 ぱたりぱたりと落ちた言葉の亡骸を、やはり安麻呂は埋葬しようとしているのだ。死者を埋め、印を立て、死者を弔い偲ぼうとするのと同じように、物語を弔い偲ぼうとしているのだと阿礼は思った。

 「それはともかく、お前は寝ろ。」

 安麻呂に言われるままに振り返ると、そこに自分の寝床がある。

 阿礼はふらりと倒れ込み、泥のように眠った。手には沙伎の人形を握りしめたままだった。

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