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憂愁

 鬼神としか言いようがない。

 山狗を狩るために奔走した男たちは、阿礼の事をそう語った。

 安麻呂が比売田の里に入ったのは、阿礼に遅れること三日。

 真礼の要請を受けての事だ。

 真礼からの使いの女が現れた時は驚いた。そんな事はあの地震のあとに里への荷物を託された時だけで、その後に宮中で度々見かける事はあっても、会釈一つ交わしたことはなかったのだ。

 内容を聞いてその驚きの事は、どうでも良くなった。

 「比売田より、沙伎どのの里が山狗の襲来を受け、沙伎どのが攫われたと連絡が参りました。里においでであった阿礼さまが山狩りに加わっておられるそうです。主は動けません。どうか。」

 猿女である真礼は簡単に宮廷を離れる事は出来ない。まして山狗の襲来や山狩りの穢れに身をおけるわけがない。

 でも、阿礼を放っておけない。

 阿礼がどれ程に傷ついているか。

 傷ついて慟哭しているか。

 安麻呂はすぐに都を飛び出し比売田の里に駆けつけた。そのまま沙伎の里まで駆ける。

 そこに阿礼がいた。

 既に山狩りは終わり、犠牲者の弔いの始まった中で、呆然と座り込んでいた。

 沙伎の里の被害は目を覆わんばかりのものだった。

 何人もが食い殺され、里中に山狗の痕跡があった。助けを呼びに走ろうとしたらしいサキが、誰よりも早く攫われてしまった事が、被害を大きくしたらしい。

 大刀自であった沙伎の婆さまも惨たらしい骸で見つかり、生き残った里人は比売田の里に移ることになった。

 「いずれ、阿礼が沙伎を妻問うた後に、という話は出ておったのじゃ。こんな形の筈ではなかったが。」

 お婆が安麻呂に語るというでもなく、ぽつりと言った。

 一族の語り部を継ぐ娘を阿礼が得ることで、弱体化していた沙伎の一族を比売田の族に組み入れようという話があったのだろう。

 沙伎は見つからなかった。

 小柄な沙伎はよほど遠くまで運ばれたのか。

 それとも、若い娘であった故に食いつくされてしまったのか。

 どちらにしてもそんな酷いことを阿礼を前にして口に出せる者などいない。

 阿礼の矢は放たれれば必ず山狗の急所を貫き、刀は襲いかかる山狗の喉を恐ろしい正確さで裂いたという。

 美しい鬼神のごとく、阿礼は山狗を狩り尽くした。

 そして今、鬼神の落ちた阿礼は小さな包みを手に座り込んでいる。

 あの包みには見覚えがある。安麻呂が手引して買わせた簪だ。

 あれがここにあると言う事は、阿礼はまさにサキに妻問うために里に戻っていたのだろう。

 「阿礼…」

 話しかける安麻呂にも気づかぬ風情で、阿礼はふらふらと、立ち上がった。

 掘られたいくつもの穴の一つの前に跪く。

 穴の中に絹の女装束があった。

 見覚えがある。

 これは確か沙伎が着ていたものだ。

 阿礼が震える手で包みを開けた。

 安麻呂にも見覚えのある銀の簪が二本。

 そして

 沙伎の物なのだろう、割れた櫛。

 その櫛を指先で愛撫するようになぞり、再び布に包む。

 包みを静かに穴の中の、女装束の上に置いた。

 それが、骸の見つからなかった沙伎の、骸の代わりなのだろう。

 もしかしたら、と安麻呂は思う。

 骸が見つからなかったのは沙伎の望みなのかもしれない。

 恋しい男に醜く惨い骸を見られるよりは、割れた櫛に面影を追われるほうがはるかに美しい。沙伎の恋心を思えばむしろこの弔いこそが望みに叶うようにも思える。

 土がかけられ、穴が埋められてゆく。

 「これ。」

 老女が一人、阿礼に話しかけた。

 枯れ果てたような老女だ。さすがの山狗も彼女のことは見逃したのだろうか。 

 阿礼が老女から受け取ったのは人形だった。都の市で売られているような、木彫りの単純な人形に都風の女装束を着せたもの。

 「沙伎の部屋にあったんじゃ。あの子はこの人形を本当に大事にしておった。何枚も何枚も着替えを縫って…ほんに衣装持ちの人形よと、皆でよく言い合ったものじゃ。」

 そう言えば、阿礼はよく市で端切れを買っていた。もしかしたらこの人形の着替えを縫うためだったのか。

 人形の衣装は市で見かけた事のある同じような人形のものよりも質がよく、肩にかけた領巾は細かな柄の蝋纈だった。

 阿礼の指が人形をなぞり、その領巾をつまむ。

 つう、と。

 器の縁に盛り上がった水がふと溢れ出すような静かさで、阿礼の頬を涙が滑りおちた。

 それは慟哭ではなく、号泣でもなく、ただ降り止まぬ雨の如く、阿礼の頬をぬらしている。

 他の墓穴を埋め終わった比売田の里人のニ、三人が、躊躇いがちに沙伎の墓にも土を入れ始める。

 亡骸を収めない小さな墓穴は、あっという間に埋め戻されていった。

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