割れ櫛
阿礼が辿りついた時、比売田の里は大騒ぎになっていた。
山狗が出た。
沙伎の里がやられた。
反射的に沙伎の里の方に走り出そうとした阿礼の腕を、大刀自の婆様が捕らえた。
「待ちなさい。」
今まで見た事もない、厳しい顔。それは冷厳な色を漂わせている。
「沙伎は攫われた。もう間に合わん。」
天が落ちてきたような衝撃が、阿礼を襲う。
お婆は静かに、最近近在で童が何人か消えていた事、山狩りの話も出ていたことを語った。それは阿礼も沙伎の里で聞いたことのある話だ。
だがもう少し離れた里の話だったはずだ。まさか群れで沙伎の里を襲おうとは。
「これを。こちらへ向かう森の道にあったそうじゃ。」
いつの間にか地にひざをついていた阿礼は、震える手でそれをおしいただく。
櫛だ。
阿礼が最初に沙伎に贈った櫛。
それが真っ二つに割れている。
沙伎。
身体の中から全ての音が消え、ただ沙伎の名だけが響く。
沙伎
沙伎
沙伎
沙伎
淡く山藍で染めた紐で前髪をくくり、くくり目の前にこの櫛を挿して。時々あの貝殻の簪も、照れくさそうに一緒に挿す。
はにかんだ笑顔は幸せそうで、それを見る阿礼も幸せだった。
「山狩りをする。捨ててはおけん。お前も加わるか?」
お婆の言葉に肯き、懐から出した包みを広げる。
美しい、二本の銀の簪。
沙伎に妻問うために用意した品。
そこに割れた櫛を加え、改めてしっかりと包むと懐に押し込んだ。




