山狗
どん、と何かが戸口にあたった。
重さと大きさのある何かだ
なんだろう。
沙伎は婆様と顔を見合わせた。
今日は夕暮れから急に冷え込んだ。すっかり日の落ちた今頃に、出歩く者もいなさそうなものなのだが。
戸に近づき、戸に手をかける。
「開けるな。」
すぐ外からしわがれた、絞り出すような声がした。元猟師の爺様だ。
「開けるな。里に山狗が入っとる。」
沙伎と婆様は再び顔を見合わせた。
そっと、隙間から覗くと、月明かりに、大きな山狗が何匹もウロウロしているのが見える。爺様は影に潜むように、片膝をついてじっと山狗を睨んでいた。
「わしが何とかするで、沙伎は助けを呼びに行け。今なら山狗はおおかた里の中じゃ。声を出すなよ。」
爺様はそう囁くと立ち上がり、山狗の方へ突っ込んでゆく。
手に握った小刀で、山狗へと切りつけた。たちまちの内に山狗が殺到し、爺様が見えなくなる。
沙伎は目を見張り、口を手でおさえて堪えた。
いや、どちらにしても声など出なかったかもしれない。
婆様が沙伎を戸口から引き離す。
「沙伎、裏から行きな。」
婆様の押し殺した声に沙伎はいっそう目を見開いた。
「走って、比売田まで行け。助けを呼んで来い。」
だめだ、と沙伎は思う。
これで走り出したらきっともう婆様には会えない。
立ちすくむ沙伎の肩を婆様が掴む。
「沙伎以外誰が走るんじゃ。誰も走るなんてできんよ。」
年寄りばかりの沙伎の里。比売田まで走ることができるのは沙伎しかいない。
「裏から行け。早く。」
裏の戸をそっと開けて外に滑り出る。
幸い、山狗の姿はない。
沙伎は目立たないように森までを背を屈めて進み、そこからはもうがむしゃらに走った。
懐に入れた簪を、着物の上から押さえて確かめる。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
走るんだ。比売田まで走るんだ。
そうしたらきっと大丈夫。
山狗に切りつけた爺様がどうなったなんか考えない。
走って、走って、走って。
どんっと重くて黒い影がぶつかる。
熱い。
喉元に燃えるような熱さが弾ける。
背中が地面に打ち据えられる。
ぱき
何かが折れるような音を聞いて、サキの意識が途切れた。




