瑞兆
「瑞兆でございますか。」
年上の同僚から囁かれた言葉を、安麻呂は思わず問い返した。
「なんでも珍かな稲がとれたそうだ。これは瑞稲であると御門に奉ることにしたとか。」
話してくれたのは父の従兄弟、高麻呂。楽器の腕はそこそこだが、譜の解読に執念を燃やしているところが安麻呂と似ているので、親しい。宮廷の様々な噂話を拾い集めるのに長けているのは、安麻呂よりも一回り上の年の功と言うべきか。
はて、と安麻呂は思う。
このところ国は災難続きだ。神に嘉されている実感などありはしない。
ただ、だからこその瑞兆、というのは分からないでもない。
それは「もうこの辺りで終わりにしてくれ。」という切実な叫びなのだ。誰が発したものであるのかはともかくとして。
高麻呂の話は本当だったようで、間もなく罪人のうち罪の軽い者を許すという恩赦が出た。
しばらくすると今度は、難波に甘露が降ったと話題になった。なんでも綿のようなものが降り落ちてきて、松の梢や葦原にかかって揺れていたらしい。これは場所が近いだけに実際に目にした者も多く、しばらくは宮廷の話題をさらった。
年の瀬まで静かに過ぎ、このままさすがにこの年は暮れるかと思われた頃、筑紫より早馬が着いた。
筑紫地震発生の凶報だった。
「慌てるな安麻呂。お前が行ってなんになる。」
「しかし。」
筑紫は安麻呂にとっては馴染み深い土地だ。今もそこに暮らす知己も多い。
その土地を大地震が襲ったという知らせは、安麻呂を動揺させた。
朝廷も新年を迎える気分などは吹き飛び、状況の把握のために早馬が行き交っている。散発的に飛び込んでくる知らせはどれも、被害は相当なものであるという事ばかりだ。
ふらふらとろくに考えもせずに阿礼の部屋に向かった安麻呂は、勤務明けの阿礼の顔を見て、頭を抱えてうずくまってしまった。できることなら様子を見に筑紫へ行きたい。だが大きな地震には揺り返しがつきもの。筑紫はいまも揺さぶられている最中かもしれないのだ。
そんなところへ安麻呂がのこのこ出かけても危険なだけでなんの足しにもならないと、阿礼がなだめる。
「今は人の消息など伝わりようもあるまい。しばらく様子を見たらどうだ。」
繰り返し諭される内に安麻呂にもやっと阿礼の言葉が飲み込めてくる。座り直した安麻呂の手に、阿礼が坏を持たせてくれた。口に含んでも味がしない。今なら水でも同じかもしれない。阿礼は安麻呂が口を湿したのを見計らって、鹿の干し肉を割いたのを出してくれた。
硬い干し肉の一片をほとんど無意識に噛む。噛んでいる内に肉はゆっくりとほとびてくる。じわりと肉の味が、ゆっくりとしみてくる。
阿礼が再び盃に満たしてくれた酒をあおる。酸味が舌をさし、少し古い酒なのだとわかった。
それでもその酒で肉を流し込む。肉は喉を通って腹に収まった。
「いかんな俺も。そうだよな、今行っても俺には何もできん。せめて出来ることを見つけてからでなくてはな。」
筑紫には思い入れがある。
安麻呂が楽譜というものを知ったのも、多くの楽器や見知らぬ楽に触れたのも、初めて女に触れたのも、みな筑紫での事だった。
知己の顔が眼にちらつく。
みんな無事でいるだろうか。
焦っても仕方がないことながら、やはり歯がゆく辛かった。辛いが、闇雲に動いても誰のためにもならない。
「じゃあ、俺はいくぞ。」
阿礼は干し肉を一切れつまむと立ち上がった。
次の勤務の時間だ。朝廷が動揺しているこんなときは、どうしても舎人の勤務時間は長くなる。まして今日は大晦日だ。規定の儀式は滞りなく行わなければならない。
「もう仕事か。」
安麻呂は二切れ目の鹿を口に入れかけたたところだ。
「まあな。気が済んだら戸口はしめといてくれ。」
短い休憩は結果的に安麻呂がつぶしてしまったが阿礼は気にする様子もなく、簡単に身支度を整える。
「悪かったな。詫びにすえてない酒を差し入れておくよ。」
勤務明けにはせめて酸くない酒を差し入れて置くかと、安麻呂は思う。
「ぬかせ。」
ニヤリと笑って阿礼は部屋を出ていった。
落ち着けば自分が本当に、阿礼の短い休みを潰してしまったのだとわかる。出しなにつまんだ干し肉が、阿礼が唯一口にしたものではなかったろうか。
「いかんな俺は。」
それにしても阿礼はいい男だ。少々小柄ではあるが姿はいいし、弓も剣も腕は立つし、狩でも必ず成果を上げる。舎人としての勤務も怠りなく、同僚の評判もいい。
その気になれば女など選り取り見取りだろうと思うのに、何が嬉しいのか女とも呼べないような小娘に進んで囚われている。
先日見かけた沙伎の姿を思い浮かべる。
歌は悪くなかった。
真礼やかつての阿礼の歌を天上の月だとすれば、野に咲く花のようなささやかさではあるが、花にも花の美しさのあることを認めない安麻呂ではない。
でも、歌い終わればこれという特徴もない小娘だ。愛らしくないことはないがその愛らしさ可憐さは、安麻呂あたりからすると女と子供のどちらに分類するべきか悩ましいようなものだった。
ただまあ、阿礼がどうしてもあの小娘がいいのなら、協力するにやぶさかではない。
安麻呂の中にはいまも阿礼への執着がある。その執着故に、今まで阿礼の恋を応援することができずにいた。
だが、ほんの少し気持ちが変わった。
こんなにも天災の多い世の中で、阿礼の恋だって何が起こるかわからない。
美しい悲鳴のような歌声が、安麻呂の内に蘇る。
奔放で阿礼をひたすらに振り回した、阿礼の最初の女。筑紫で出会った、外国の舞姫。
筑紫の地震の話をきいた時、安麻呂が最初に思い浮かべたのがその舞姫だった。
彼女がどうしているのか、生きているのか死んでいるのか、安麻呂には知る術がない。
彼女との仲は終わっている。安麻呂が京みやこに戻った事で終わった。実際に京みやこに戻ってから彼女を思い出す事は、あまりなくなっていたのだ。
それでも、筑紫の地震の話をきいて、最初に浮かんだのは彼女だった。
美しくて、華やかで、でも悲鳴を思わせるような、悲痛な声で歌う舞姫。
安麻呂の中から彼女の面影が消えない。
阿礼にとっての沙伎は、安麻呂にとっての彼女とは違う。きっと安麻呂が彼女に心惹かれ、囚われたよりも、ずっと強く心惹かれている。
(そういえば、簪がどうとか言っていたな。)
いつだったかそんな事を聞いた覚えがある。采女の挿しているような銀と玉飾りの簪を贈りたいのだと。
乳臭い小娘だが、妻問うに不足のある年齢ではなさそうだった。ならば阿礼の踏ん切りのつかない理由がその辺りにあるというのはありそうな事だ。
(ひと肌脱いでやるか。)
女の飾りの事なら知っているのは女だ。
通う女の顔を幾つか思い浮かべる。
筑紫の地震には手も足も出ない安麻呂だが、阿礼の妻問いのためになら出来ることがありそうだ。
それは安麻呂の心境の変化という以上に、筑紫の地震に対しては何もできない無力感を誤魔化すための代替行為だったかもしれない。
安麻呂はもう一切れ干し肉を口に放り込むと立ち上がり、きっちりと戸を閉めて自分も仕事をするために歩き出した。




