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ぬえくさの

  「鹿の肉に猪の脂、鹿の皮まで。ありがたいこと。」

 婆様が拝むように頭を下げた。

 実りの乏しかった冬を乗りきるのに、比売田では狩りの回数は増えた。時々は沙伎の里にもおすそ分けがまわってくる。とくに阿礼は里に戻っている折には欠かさず参加して、いくばくかの獲物を、沙伎に届けてくれた。

 沙伎の里では狩りに出られる男手がない。だから比売田の援助は本当にありがたかった。

 婆さまの指図で沙伎が干し肉を作る準備を始める。皮を鞣すのは腕に覚えのある爺さまの仕事で、呼ばれた爺さまがいそいそと皮を運んでいった。

 脂は一度溶かしてこし、壺の中に蓄えておく。チリチリになった脂かすを細く刻んだものが粥に入るのが、狩りのあった日のごちそうだ。数少ない里人の全てで分け合う。その粥も今年は特に稗がちだが、不満を唱える者はいない。

 もともと米の収量はそれほど多くなく、普段の膳に並ぶのは稗混じりの粥があたりまえなのだ。

 「沙伎の御蔭で良いものにありつけたわ。」

 「ほんに沙伎は良い婿を捕まえた。」

 粥をつぐ沙伎が真っ赤になる。

 いつの間にか阿礼は、まだ通いもしない内に沙伎の婿呼ばわりをされるようになっていた。沙伎もすでに十五、年が明ければ十六だ。そろそろ具体的に妹背の仲になってもおかしくない。

 ただ、阿礼はまだ思い描いた簪を手に入れられずにいる。それはなんの約束と絡むわけでもないのだけれど、阿礼自身のこだわりになって沙伎の枕辺の戸を叩くことをためらわせていた。そんな事情を沙伎が知っているわけではないが、阿礼が踏み込んで来ることを躊躇っているのには気づいている。

 「そういえば、また山狗が出るという話をきいたが、誰か見かけた者はいるか?」

 いつの間にか冬になると、近隣を山狗が徘徊するのが当たり前になっている。今年もちらほらと見かけたという話が近隣から聞こえていた。

 「今のところすぐ近くで見かけたという話はきかんな。」

 皮なめしが得意な爺様は、元は腕利きの猟師だったという。今でも弓で鳥を落とすぐらいの事はするが、一人で猟をするのは無理だからと獣を狩るのはやめてしまった。それでも折々里の周りを見回って、どんな獣がいるのかは確かめている。

 「だが、奴らは足が早い。思わぬ遠くから現れたりもしよるで、油断はせんことじゃな。」

 少し離れた場所では子供がさらわれたというような話もあるらしい。

 皆で集まっての宴じみた食事は夕方まで続き、里人が帰って部屋を片付けると、阿礼が大の字に寝転がった。

 「おやおやおつかれかい、阿礼。」

 婆様が笑いながら阿礼に上衣をかける。

 「昨日狩りに出て、朝からさばいたからちょっとな。」

 最近の阿礼はすっかり沙伎の家でくつろぐようになり、日が落ちるまえに腰を上げる事は少ない。日が落ちてから帰って行く阿礼を見送るたびに、いっそ泊まって行けばいいのに、と沙伎は思う。

 すでに婿と呼ばれている阿礼が沙伎の家に泊まるということが、何を意味するかわからないほど沙伎は子供ではない。

 本当に泊まるとなれば、自分が狼狽することはわかっているが、こんな夜道を見送るくらいなら、泊まっていけばいいと思う。

 比売田の里は確かにとても近いけれど、少しは森も歩かなければならない。時に獣の出る夜道はやはり危険だ。そんな道を阿礼に歩かせるのが嫌だった。

 本当は、未だに阿礼が直接妻問うてくれないことに不満もある。周囲は阿礼を沙伎の婿と見ており、それを沙伎も阿礼も否定しない。

 贈られた数々の美しい「土産」。

 ことあるごとの気遣い。

 阿礼にそのつもりがないわけでない事は沙伎にももうわかっている。

 ただ、その決定的な言葉を、阿礼の口から聞きたいのだ。

 懐から包を出す。

 美しい若草色の布に包まれているのは、あの貝殻の簪だ。

 人形はもとのように部屋に飾るようにしたけれど、この簪は地震以来、いつでも懐中に持ち歩いている。

 時に酷い揺り返しがあっても、着物の上から簪の包みに触れるだけで、落ち着きを取りもどすことができた。

 沙伎は阿礼をこの世で一番慕わしく思っている。

 それは阿礼が沙伎を猪から救ってくれたそのときに、くっきりと沙伎の中に刻まれて揺らいだことはない。

 だからあの唇が、柔らかな声が、沙伎を求める言葉を紡ぐのを見たいのだ。

 もしかしたらそれだけで、心の蔵がはちきれてしまうかもしれないけれど、そんな事は構わない。

 それとも沙伎がそんな事を阿礼に求めてしまうのはいけないのだろうか。

 「ぬえくさの…」

 ふと習い覚えた歌が口をついた。

 「…めにしにあれば わがこころ うらすのとりぞ いまこそば わどりにあらめ のちは などりにあらむを…」

 沙伎の心は沙伎のもの。

 けれど、

 阿礼が求めてくれるなら、阿礼のもので構わない。

 なのに、求めてくれなければ差し出すことも出来ないではないか。

 阿礼はやっぱり泊まる事なく夜道を帰ってゆく。

 阿礼の消えた夜道をもう一度透かし見るように見つめて、沙伎は家に戻った

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