表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝国の栄華  作者: ロンメル
第二次世界大戦
28/29

28

28

1948年11月26日、スルト作戦が始まった。1142にコルシカ島をRAFのモスキート16機が奇襲、フランス空軍基地とレーダーに大損害を与えると1215にルフトバッフェ第三戦略爆撃隊が通常爆弾を積んでカンヌの基地から飛び立った。低空飛行で1305にローマ上空に侵入した。六時間ごとの三交代制のイタリア空軍近衛戦闘機隊は1300から1315にかけて勤務者が交代することを諜報活動で突き止めていたルフトバッフェはこの隙をついてローマ上空に爆撃編隊で突入した。コルシカ島から警報がなく、安心しきっていたイタリア軍は満足に反撃することもできずに第三戦略爆撃隊は悠々と爆撃を行って引き上げた。日が沈む1750にイギリス第十戦略爆撃隊のアブロランカスター300機が出撃し、ナパーム弾を投下して被害復旧の作業をしていたローマ市内を燃やした。更に二時間後にはアブロランカスター300機が消火活動をしていた消防隊を狙いに燃え盛るローマ市街地の上から小型爆弾の雨を降らせた。それが1週間も続くとローマは瓦礫の山と化してスルト作戦は大成功に終わった。


ウィーンではドナウ川の南側は殆どイタリア軍とエチオピア軍が制圧し、ドナウ川を挟んで狙撃手や砲兵が対峙した。イタリア軍優位に思われたがイタリア軍はアフリカや南フランス、シチリア島に兵力を転進させられた一方でドイツを始めとしフィンランドやノルウェー等の各国部隊合わせて120万名はウィーン北西に待機し、イタリア軍の包囲殲滅を目的として作戦準備を行った。東ヨーロッパ方面の最高司令官であるグデーリアンはドナウ川の北岸の市街地に10万の兵員を割き、その他の戦力で東西同時攻撃により側面の弱体化したエチオピア軍を撃破し連合軍を包囲しようとした。兵士約110万人、戦車約1000両、砲門約14000門、航空機約15000機が参加した。連合軍は兵士約65万人、戦車約1700両(エチオピア軍のL3豆タンク含む)、火砲約5000門、航空機約400機で迎え撃った。元旦に仕掛けられた攻勢はイタリア、エチオピア両軍の意表をついたものだった。僅か二日で機甲部隊はウィーン南方40kmのウィーナー・ノイシュタットを奪回して連合軍を巨大なウィーンポケットと呼んだ包囲網の中に閉じ込めた。交代して任官されたばかりのカッツァーゴ将軍は撤退の許可をローマに求めた。しかしイタリア空軍大臣のバルボが「ウィーンの連合軍は空から養う」という空路補給案を受けた大塚はウィーンに留まることを命じた。グラーツにいた連合軍北東欧州軍総司令官のメッセ元帥は現地の燃料不足を理由に撤退許可を求めたが大塚はこれを却下、改めてカッツァーゴ将軍に死守命令を下した。更に包囲を解くための「カエサル」作戦の実行をメッセに命じた。メッセは「カエサル」作戦と同時にカッツァーゴの部隊を撤退させる「オクタヴィアヌス」作戦をローマとカッツァーゴ将軍に提案したがカッツァーゴ将軍はローマからの死守命令を理由にそれを拒否した。メッセはローマに死守命令の変更を求めたがこれは大塚の耳に届く前にバルボが握りつぶした。メッセは仕方なく一月二十日にカエサル作戦を実施した。ただウィーンへの補給を優先したために動けない部隊が出る、降雪により航空支援が行えない、不運にも砲兵隊の無線機が故障し、攻撃開始の連絡がいかずに支援砲撃が得られないといった事情により作戦は開始直後からうまく機能しなかった。ただイタリア軍も完全に運に見放されたわけではなく移動中のドイツ軍機甲部隊の側面を偶然奇襲できるなどしていた。メッセはこの攻勢で包囲網を一部分解いたことを確信した。事実、包囲網の一角だったノルウェー第五師団は突破されて包囲網に穴があいていた。しかし同盟軍の予備兵力投入によってすぐにその穴が塞がれることはメッセにもわかっていたため、カッツァーゴに対して早急に撤退するように命じたがカッツァーゴはこれをローマからの死守命令と燃料不足を理由に拒否した。メッセは救援部隊ごと包囲されるのを避けるため攻勢開始地点まで撤退した。メッセの撤退の後に同盟軍は更に包囲網を固めた。大塚はこの作戦の失敗理由をメッセに求め、メッセは大塚により解任された。メッセはこれに不服を示し、釈明のためローマを訪れた。バルボはこの事を把握しておらず、大塚にことの内容が発覚したためバルボは即刻解任された。大塚はメッセを北東欧州軍総司令官に再任した。又、カッツァーゴには撤退を命じた。メッセはカッツァーゴの撤退の後に国境まで撤退して本土防衛に作戦を移行する旨を大塚に進言した。理由としてウィーンに航空支援が行われている間に制空権を奪取した同盟軍第八一軍団がザクレブから西進を開始していることを挙げた。大塚はこの提案を承諾し、新空軍大臣のフォギエレは空軍の総力を持って撤退を支援する旨を明らかにした。かくしてレムス作戦が開始された。カッツァーゴにもこの作戦が伝えられたが燃料不足の旨を報告された。イタリア軍は前線に複数回の機甲部隊を使った威力偵察を行い、同盟軍の弱点を探り出すと二月二日未明に航空攻勢、翌朝からポケット内の唯一の航空基地たるバーデン飛行場から輸送機がポケット内の北側の兵員を載せて撤退、南側は陸路で撤退した。しかし、ウィーン市街地にいたイタリア軍二個師団とエチオピア軍は降伏命令を受けて降伏した。カッツァーゴは最後の輸送機が飛び立ったのを確認した後、バーデン飛行場からジープで撤退した。悲惨なのは南側の兵士だった。北側では重装備の殆どが放棄されたが南側では装備ごとの撤退が命じられていたからだ。特に悲惨なのがエチオピア軍重砲兵隊で牽引車を失った彼らはフィンランド軍スキー兵によって捕らわれた。工業後進国であるイタリアは少しでも重装備を本国の防衛に充てたかったがそのための作戦が裏目に出た。結局二月五日に重装備放棄命令が下され裸同然の兵隊が一気にイタリアまで引き返した。


1949年2月12日に佐藤はマルセイユから小型の機雷施設潜水艦に乗ってローマへと逃げ出した。翌日には自由フランス軍の発足をローマで宣言した。イタリアは同盟国にスイスを通じて講和案を出したがギリシャ、トルコ、イギリスが無条件降伏のみを示し破談した。イタリア軍は第一戦線、第二戦線とそれを纏める第一総軍第三戦線、第四戦線とそれを纏める第二総軍、第五戦線の三つの大部隊を本土に、そしてアフリカ遠征軍の四つの大規模部隊に再編成し、陸海空軍統合運用による本土防衛戦を行うことを大塚が国民にも宣言した。

北東の国境を担当する第一戦線はオーストリアからの撤退の際に右足を失ったカッツァーゴが上級大将に昇格して指揮を執り、北西の国境を防衛する第二戦線はナージ大将が司令官となり、それを纏める第一総軍はフィレンツェの第一総軍司令部に篭っているメッセの指揮下に置かれた。

イタリア中部を守るのは第三戦線でリベルベリ大将が指揮した。ローマ守備につく第四戦線はフォギエレ元帥の下に防空戦力が主として構成された。そしてその二つを纏めるのはローマの第二総軍司令部にいるカヴァッレーロ元帥だった。

イタリア南部、シチリア島を担当する第五戦線はナポリに司令部が置かれ、カンピオーニ元帥が指揮した海軍中心の部隊だった。

アフリカ遠征軍はグラツィアーニ元帥の下に置かれた。


そして統合作戦本部がローマの地下に築かれた大塚の地下官邸の中に設けられ、イタリア本土決戦の総指揮はバドリオ国家元帥に委ねられた。2/24にマルセイユのフランス軍は降伏した。270万の兵員が北からイタリアに侵攻するために集まった。イタリアも国民をローマ市民兵の伝統を煽って国民防衛隊を組織し、旧式兵器等を装備させた。国民防衛隊の主たる装備はカルカノM1891小銃、M18無反動砲、トンプソンサブマシンガンだった。正規軍もL3豆戦車に75mm無反動砲を搭載した軽自走砲やシャーマンのシャーシに13cm砲を無理やり積み込んだ対戦車自走砲を作り、生産戦車も重戦車のP49シリーズのB型と60mm軽高射砲の軽戦車に絞られた。P49Bは多砲塔戦車で13cm砲の主砲塔とは別に車体前部右側の切り欠きに37mm対戦車砲を、左側に6.5mm機関銃をそれぞれ限定旋回の砲塔に収めた6人乗りで車長、主砲砲手、主砲装填手、副砲手、機銃手、操縦手が乗り込んだ。37mm砲は13cm砲を使わなくて済む軟目標や軽装甲目標を相手にするために搭載された。


3/1、同盟軍は270万人の兵士、6000門の重砲、4000両の戦車、18000機の航空機をもって北側からイタリア半島に攻め込んだ。更に南北の連絡を断つためにギリシャとイギリス、トルコ三軍の空挺部隊六個師団12万名と陸上兵力六個師団がペスカーラに上陸した。最初の一週間だけで第一、第二戦線の前線は崩壊した。この二つの戦線は数では合わせて140万の兵士と300万の市民がいたがオーストリア戦線や南フランス戦線から逃げてきた敗残兵が多いため士気も低く、無傷な兵も徴兵されたばかりの新兵が多かった。最新重戦車P49Bは石油不足により満足に動かすことも出来ずにローマまで鉄道にて撤退させた。砲爆撃の損害と後方への空挺降下で混乱した指揮系統のもとで戦えないと判断したカッツァーゴは自決、メッセは仕方なく第一総軍に与えられていた予備部隊に第一総軍の保有していた燃料の約三分の一をつぎ込んでパルマでイギリス軍と対峙したがその間に北東からドイツ軍がボローニャの手前まで侵攻してきたことを知ると撤退した。大塚はこの損害を受けると早くも国民の命を守るために降伏を決断、一時停戦を自軍に命じ、同盟軍にも求めた。そして佐藤をイタリア憲兵の手で捕らえると2人でヴェネチアのグデーリアンのもとを訪れて無条件降伏の意思を示した。グデーリアンは二人の身柄を拘束した後ドイツ政府に確認し、岡、俺、宮本の三人の協議の末にイタリアとフランスの無条件降伏を受け入れた。そして残る大きな敵対国家はアメリカのみとなった。

次が最終話です。最後まで読んでいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ