05 萌動
曹操の陣は綻びなく、見張りの眼差しは逸れぬ。鄭渾は歩を緩め、李蘭と鄭袤の足並みを確かめた。李蘭は荷の紐を握り、鄭袤は唇を結んで前を見据えている。
迎えに立ったのは、目に冷ややかな冴えが潜む細身の男であった。荀攸である。かつて董卓暗殺を鄭渾の兄・鄭泰らと計画し、投獄されたこともある人物だ。鄭渾が拱手して頭を垂れると、荀攸は言う。
「公業殿のこと、痛嘆の至りです」
そのひと言に、李蘭の指が紐から離れて組み直された。鄭袤は肩を正し、叔父の横顔を見る。鄭渾は礼の言葉を返した。
「お心にかけていただき、ありがたく存じます」
荀攸はうなずき、用件を簡潔に告げる。声は平らで、余分がない。
「子魚殿と俺が推しました。人を起こすも鎮めるも、まず人を見る目から。公業殿の評に従ったまでです」
そう言うと、荀攸は李蘭と鄭袤に向き直った。
「お二人はこちらへ。文公殿は案内が来るまでしばし待たれよ」
荀攸は二人を伴い、帷の向こうへと歩を運ぶ。去り際に鄭袤が振り返った。不安と期待が同じ秤に載っている。言葉は結局生まれず、ただ深く一礼して消えた。
しばらくして、案内の兵が一人、鄭渾の前に進み出て道を開く。鄭渾は袖口を直し、兵の後に続いた。
帷が持ち上げられ、帷中に入る。几と筆、墨と札。その奥に曹操が坐していた。鄭渾の胸の鼓動が一つ、強く鳴る。
「田の水、誰が握る」
問う曹操の声は平らである。鄭渾は一息置き、言葉を選んだ。言を飾れば地から離れる。
「川は天のめぐみでございますが、分け口の板は郷の務めにてございます。上げ過ぎても下げ過ぎても、上は腐り、下は枯れます。里正と田の長を定め、年ごとに見習いを替え、板の上下を人前で決めさせるのがよろしゅうございます」
曹操が間を置かず次を投げた。
「凶年、倉の粟をみなに放てば今は救えるが、明年の種が尽きる。さて、どうする」
喉の渇きを自覚する。掌の中で指を軽く押さえて答えた。
「倉の粟は半ばを飯に、半ばを種に致します。種は名を記して貸し、耕した畝に応じて秋に返させます。返せぬ者には耕す手を添えて返せる年に返させる。単に施すより、働いて守らせる方が人は立ちます」
灯の揺れがわずかに収まる。曹操はさらに問うた。
「争いの根はどこにある」
小川の板がずれ、声が荒くなる光景が脳裏に浮かぶ。足りぬ物そのものより、分けられ方への疑いが火となる。
「足りぬことより、分け方を疑う心からでございます。持つ者も持たぬ者も納得できぬとき、争いが生まれます。秤と物差しを人前に置き、役の者は先に使わぬと誓わせ、書きつけを里の壁に掛けます。言葉は極力短くし、誰でも読める字で」
曹操の唇の端がわずかに動く。褒める言は飾られず、筆が軽く持ち替えられた。
「公達や子魚殿が申す通りよ。……邵陵県令に任ず」
逃げ道を探す臆した心が頭をもたげかけたが、すぐに引く。受けたものは、背から前に移して抱えねばならぬ。鄭渾は拱手した。胸が熱い。退出の作法を終えても、見送りの声はない。筆先が書簡を握り、別の用へと移る気配がある。
帷の外に出ると、案内の兵が道を開けて一礼した。油灯が先ほどより明るく見えるが、足は軽い。遠い畔で冬草が土を押し上げるように、何かが内で芽をふくらませていた。
出仕の兵が行き過ぎ、静寂が戻る。布幕の端に鄭袤が立っていた。荀攸に伴われて別に去ったはずの面影が、いまはひとりでこちらを待っている。顔つきが変わっていた。幼さは消えぬが、眼の奥に固い色が宿っている。
「叔父上」
鄭渾が歩を近づけると、鄭袤は拱手した。
「私は故郷に戻ります。いちから学び直し、己の道を探したいと思います」
言い切ってから黙した。言葉が軽くならぬようそこに置く。鄭渾は驚きを胸に受けてすぐにうなずいた。甥が自分の足で立つと決めた、その事実があればよい。
「……そうか」
沈黙は長くは続かず、鄭袤は口を開く。
「書をもう一度、根から学びます。父の名に寄りかからず、私の手で覚えたいのです」
李蘭が帷の陰から現れ、二人の顔を見比べた。袖の中で指がひとつ動き、励ます合図が送られる。鄭袤はそれに応え、わずかに口元をほぐした。鄭渾の胸に兄の面影がかすかに差す。声に出さぬままその影を押しやった。いま目の前にあるのは甥の決意であり、これから歩く足の音である。
「分かった」
言を置くと、少年はうなずいた。通い路の先に夜の気配が濃くなると、三人は足をそろえ、別々の支度に散る。
夜が明けきらぬころ、粗い碗に湯を注ぎ、言葉少なに三人は卓を囲む。昨夜のうちに荷はすべて軽くされ、不要なものは包みを解いて分けた。鄭袤は懐に書簡をひと巻き収め、紐を固く結び、その手元に李蘭の視線が優しく注がれる。
湯を飲み終えるころには、空はうすく色を変えていた。鄭渾と李蘭は邵陵へ向かう道を取り、鄭袤は開封へと歩を向ける。分かれる場は定めず、自然に足が止まったところが別れの地となった。
鄭渾は甥の前に立つ。
「自分の道を行きなさい。……躰を大事にするのだよ」
鄭袤は拱手し、頭を垂れた。
李蘭が一歩出て、鄭袤の帯を軽く直す。結び目は崩れていないが、手を添えることに意味がある。指先の温かさが帯から胸へと伝わった。
道は二つに割れ、踏み分けられた土が線を描いた。鄭袤が先に背を向け、歩き始める。鄭渾は李蘭と並び、しばらくその背を見送った。鄭袤の背が小さくなって、やがて木々のあいだに消える。
李蘭が言う。
「良い顔でしたね」
「そうだな」
その返事に、いくつもの想いが浮かんだ。
ここからは民を守ることが務めになる。暮らしを守り、争いの芽を早く摘み、耕す手の力を信じさせる。それが今日の一歩であり、明日の一歩でもある。
風が背を押す。歩を合わせるたび、衣擦れの音が小さく重なった。振り返らずとも、胸のどこかで三人は並んでいる。次に会うとき、それぞれが選んで歩いた時間の分だけ、語る言葉はきっと意味を増す。




