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04 若芽

 井戸の縄は夜の水をまだ含んでいた。鄭渾は袖をからげて釣瓶を引き、掌で水肌を受ける。李蘭は戸口に帷を掛け、甥の鄭袤は墨を摺った。几の上には昨日の図があり、用水の分け口と田ごとの高さが線で結ばれていた。


 堰の板がゆるく鳴り、川上の石に泡が絡む。鄭渾は郷の者と並んで板の掛け替えをし、楔(くさび)を打ち直した。木槌の音が三度鳴るたびに、水の勢いは少しずつおとなしくなる。李蘭は縄を撚り、濡れた足に布を当て、子らの膝の汚れを拭った。鄭袤は杭の間を歩いて水位を記し、数えた目盛りを札の脇に小さく記す。


 昼には簡素な粥を分けた。塩はわずかで、葱の青が香りを添える。人々は器を手にしたまま用向きを語り、崩れた畔の補修や網場の編み直しを相談した。鄭渾は多くを言わず、よく聞き、決まったことをもう一度簡潔に言い直す。その声が耳に入った者はみな、明るい顔でうなずいた。


 午後、林の縁を歩いた。若木の根元には古い切り株が露わになっており、雨で色を変えている。鄭渾は手斧で伐り口を示し、来季は間を置くようにと伝えた。帰り道、小川の石に腰をおろすと、李蘭が竹の篭から棗(なつめ)を出し、鄭袤は簿を広げて昼の測りを確かめる。


 幾日かして、旅の商いが持つ噂に不穏な言葉が混じり始めた。東の方で旗の列が伸び、川筋の渡しには見慣れぬ印のある札を下げた者が立つという。郷の者は声を潜め、子らは戸口の内で遊ぶようになった。鄭渾は仕事の手を緩めず、簿に水位の数を増やす。


 やがて、遠い陣の鼓が聞こえ、孫の旗が風になびいた。川のほとりの草は踏まれ、町の市は午を過ぎても品の並びが薄い。口には出さぬが、人々はみな、同じものを見ていた。


 華歆は戸口の帛巾を取ると、鄭渾に微笑んで見せる。


「騒がずともよい。刃を交えるわけではない」


 そう告げて、華歆は隠士の被る頭巾を被った。門前に至ると門兵は槍を下げ、道の両側の民は頭を垂れた。戦の才を持つ者が戦の外で人を守ると決めたとき、誰もが息を呑む。


孫策(そんさく)は華歆を上客として遇した。郷の道に血が流れることはなく、吏の出入りも慎ましい。


 鄭渾は畔を見回り、堰の上手を検(あらた)めた。板は無事で、水は通い、林の伐り口も荒れてはいない。見えるものは保たれているが、見えぬところに波が寄せている。


 それから幾月と経たないうちに、報が届いた。孫策が刺客の手によって斃れ、位は弟の孫権(そんけん)に移ったのだという。城は騒がず、旗は向きを変えた。華歆は新たな主に仕え、郷の人心が乱れぬよう、出入りの吏と民の間をよく取り持つ。ほどなく、北の官渡に陣する曹操(そうそう)が華歆を招いた。孫権は引きとめたが、華歆は自らを使として遣わし、誼を結ぶべしと進言する。国のため、民のため、遠き強者と胸襟を開くべき時であると。若き主はうなずき、喜んで道を許した。


 出立の日、道は人で満ちた。別れの賓客は数えることもかなわず、門前から川筋まで彩りが続く。帛包は山となり、金や布の束が几の上に積まれた。華歆は印を付けて名を記し、出発の刻に至ると、すべてを元の持ち主へ送り返した。与えを受けるは私のためにあらず、心を残させまいとの意である。人々はその徳義に息を呑み、長く頭を垂れた。


 鄭渾の家もまた別れの列に加わった。李蘭は衣の襟を正し、鄭袤は口を引き結ぶ。


いよいよ別れの刻が近づくと、列の後ろで鄭袤が袖を握りしめ、ついに涙をこぼした。華歆は少年の前に立ち、その手を取る。


「泣くな泣くな。お前たちを忘れはせぬ」


 華歆は鄭渾に向き直ると、さらに続ける。


「文公殿、いずれ北より報せが届く。それまでしっかりと民を守られよ」


 華歆は帯を結び直し、駕(が)に乗ることを辞して歩を進めた。川風が旗の縁を揺らし、砂の上に残る足跡が伸びていく。やがて人の群れは散り、町は常に戻った。鄭渾は背筋を正し、李蘭と鄭袤の肩を順に叩く。



  ×  ×  ×  



 それから幾つかの月が過ぎ、鄭渾に北から一巻の書簡が届いた。


『司空・曹公の軍に参られよ。郡国を治め、民の困を救うに、文公殿の力を借りたい。』


 一字一字が胸に沁み、恩人の姿がそこに重なる。華歆の約した報せが確かに届いたのである。李蘭は碗を卓に置き、鄭袤は息を潜めて叔父の顔を見つめた。


「行こう」


 鄭渾が告げる。李蘭はうなずき、戸口に掛けた帷を下ろした。


 その夜、衣を干して皺を伸ばし、帛を巻いて印を付けた。道具は少なく、筆と書簡、縄と小刀、糸と針。李蘭は家の架を見渡し、旅に要る火と穀の量を計る。鄭袤は几の前に坐り、地図をひと巻きにして紐で結んだ。


 明けて、空は晴れた。鄭渾は水で面を洗って帯を締め、李蘭は包を三つ作り、一つを鄭袤に渡し、一つを鄭渾の懐へ入れ、一つを自らの腰へ結ぶ。


「これでしばらくは足りるはずです」

「ありがたい」


 鄭袤は背を伸ばし、肩に布を掛けた。


「旅の途中、叔父上と叔母上の身は私がお守り致します」

「心強いな。旅で見たものをしっかりと憶えておくのだよ」


 三人が門を出ると、米を煮る甘い香りがする。近所の者が数人、彼らの背を見送っていた。


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