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03 種子

 宿の庭に陽が差すと、霜の名残りを溶かすように土がしっとりと色を深めていく。李蘭は荷を紐で固く縛り、結び目を掌で押さえて確かめる。鄭袤は馬の腹を撫でて毛並みの向きに沿って手を返した。道具の音が交わり、出立の支度がひとつずつ形になっていく。


 鄭渾は衣の襟を指で確かめ、袁術の屋敷へ向かった。客の名が唱えられ、控えの室から堂へと通される。卓には杯が二つ置かれていた。


 袁術は歩を運び、席につくより先に拱手する。


「文公殿、よく来てくれたな」


 声は柔らかで、眼差しは真っ直ぐであった。鄭渾は頭を垂れる。


「長らくの厚遇身に余りました。ここを発ち、故旧のもとへ身を寄せることにいたします」

「惜しいことだ。……しかし、都の飾りより野の風が合う人もいる。君はそういう人なのだろう」


 言い切る声音に惜しみはあるが、引き留める様子はない。正しく教えられてきた者の礼である。


 「道は荒れていようから、伝舎を使えるよう途中の札を手配させよう。君は道の人々をよく見るからな、見たものを忘れずに進めば、いずれ同じところへ帰ってくるかもしれぬぞ」


 鄭渾は胸に手を当ててうなずく。別離の形がととのえられ、過不足のない挨拶が交わされた。袁術は最後まで姿勢を崩さず、鄭渾を門の外まで送る。


 城門の石段は、塵一つ落ちていない。門の上では絹の帷が揺れ、城下の道は早くも人で満ちていた。鄭渾は振り返らず歩を進め、李蘭と鄭袤がその背に続く。


 城を離れると、風が渡るたびに匂いが変わった。遠くで鍛冶の槌が打ち、小川の石を越える水が陽にきらめく。歩くほどに胸の音が平穏な調べに変わっていく。



  ×  ×  ×  



 幾日か過ぎ、やがて大きな川の渡し場に至った。岸は人で混み、荷を担ぐ者や幼を抱く者、木札を下げた者らが行き交う。官の列は道の端で足を止め、順を待つ。


 そのとき、川の中ほどの浅瀬で民の小舟が坐礁した。腹を砂に擦りつけ、舷は片方水に浸かる。船頭は棹を差し替えるが、力のかかる角度が見つからぬ。岸に近い者たちは様子を伺うが、歩みは出ぬ。列は列の形を崩さず、ただ見ていた。


 鄭渾は下衣を膝までまくり、草履を脱いだ。李蘭は一瞬眉を寄せたが何も言わぬ。鄭袤は荷の位置を直し、叔父の帯の端が濡れぬよう手で押さえた。鄭渾は川へ降り、水とねばる泥を踏みしめて小舟に近づく。


「押し出す。棹は斜めに取って、舳をわずかにこちらへ」


 船頭がうなずき、舟の者が身を低く構えた。鄭渾は両の肩を舷へ入れ、腰を落として押す。水が裾を重くし、泥が足首を引く。舟はわずかに浮き、また沈んだ。


 岸から若者が駆け降りてくる。袖をからげ、鄭渾の隣に肩を並べた。


「俺も手を貸す」


 舟の裏で水が跳ね、板が鳴る。続いて老人が杖を投げ捨て、膝まで水に入り、舳の先に手を添えた。綱を引く役を買って出た子どもの掛け声は誰より勇ましい。女も裾を握って石の上に立ち、足の置き場を示す。


「それ」


 誰かが言い、誰とも知れぬ声が重なった。舟の腹が砂から離れ、流れに乗る瞬間を捉える。船頭が棹をすばやく切り替え、舳先がわずかに右へ向いた。水が舷を打つ音が軽くなり、舟はするりと浅瀬を抜ける。


 岸に戻ると、舟の者が頭を下げた。額から水が落ち、口元に笑みが出る。鄭渾は手をひとつ振り、何も受け取らず、何も名乗らぬ。李蘭は濡れた裾を布で押さえて苦笑いをひとつ浮かべた。


「あなたはいつも、こうですね」


 声の底に誇りがある。


 鄭袤は黙って見ていた。泥に埋まる足に肩に刻まれた水の跡、そして舟が離れる一瞬の角度。目に入ったものを、胸の架にしまうように、ひとつひとつ覚えていく。川風が少年の髪を撫で、濡れた足跡が陽に消えた。


 列は再び形を揃えた。車の輪はゆっくりと動き出し、牛の背が上下に揺れる。渡しの騒めきが遠のくにつれ、川の底から立ち昇ってくるような響きが残った。人が多くても、声はひとつに集まるときがある。誰のものともつかぬその声が背を押した。


 道は南へ折れ、田の間を抜けて伸びている。畔の土は丸く、草の芽がその隙間を埋めていた。陽は高く、風は荷を軽くしてくれる。三人は同じ歩幅で進み、さきほどの川の音を胸に残したまま、次の土地へと入っていった。


 川を離れてさらに進むと、田の緑が濃くなり、川は陽を返してきらめく。その小川のほとりに、男がひとり立っていた。衣は清く、穏やかな眼をしている。華歆(かきん)であった。先に鄭渾が送った書簡を受けて、彼らの到着を待っていたのである。


「文公殿」


 呼び声は温い。鄭渾は笑みを浮かべて頭を下げた。華歆は李蘭にもねぎらいを述べ、鄭袤をじっと見て微笑む。


「公業殿の血筋だな」


 簡素な室に通され、湯と粥が出た。味は薄いものの、温かく腹にやさしい。言葉はまず兄・鄭泰の思い出に及び、やがて水の巡りと山の手入れの話へ移る。堰が傷み、流れが畔を壊した。里の林は乱伐の跡が残り、川下では魚籠が詰まり気味だという。


 鄭渾は言った。


「土地に触れる働きを願います。水を通し、林を養い、網の目を直したいのです」


 華歆はうなずく。


「手を借りられるなら、ありがたい」


 鄭袤が身を起こした。


「僕も手伝います」


 華歆は目元を和らげ、よろしいと微笑む。


 庭には榆(にれ)の若芽が伸び、井戸の縄は新しく巻き替えてあった。華歆は帛巾(はくきん)を差し出し、濡れた裾を見て微かに笑う。


「明朝、堰(せき)の上手から見て回ろう。郷の長を二三呼ぶ。用水の分け口、田ごとの高さ、林の伐り口も確かめたい。川下の網場は、いま一度縄を編み直す必要がある」

「承知しました。図も作ります。道筋と水位を比べ、崩れに強い地を探りましょう」

「記す者がいると助かるな」


 華歆はそう言って、几の上の札と筆を指した。李蘭は囲いの架に目をやり、干した葦や板の束を数え、足りぬものを心で並べる。


 午後は川沿いを少し歩いた。桑の若葉が風に裏を見せ、竹の節に影が宿る。



  ×  ×  ×  



 夕つ方、燕が低く旋回した。灯がともると、家々の戸に色が差す。


 小さな灯の下で三人は粥をすすった。ひととき黙してから、鄭袤が口を開く。


「川で舟を押したことを思い出しました。あれが学ぶということなのですね」

「そうだな。人はみな誰かの師だ」


 李蘭が言う。


「子魚様の下でなら、袤は多くのことを学べるでしょう。この地で根を張りましょうね」


 鄭渾はうなずき、碗を持ち直した。


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