↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

02 虚華

 道は町に近づくほど砂を巻き上げ、荷を負う者の足元で渦を巻いた。瓦の列は遠くからでもよく見え、城門の上には絹のような旗が垂れている。門前の市は品は多いのに声が少なく、秤の皿が鳴る音が耳に届いた。笑いはあるが、井戸の底で響くような笑いだった。


 鄭袤は背を伸ばし、城の高さを見上げる。目に映るものはどれも新しく、手を伸ばせば届くように思えた。されど近づけば近づくほどものの輪郭は冷たく、触れた指先だけが自分のもののように思える。李蘭は荷紐を持ち直し、行き交う女たちの顔を追った。頬は化粧の粉で明るく見えるが、瞼の縁には疲労の色が残っている。子を抱く女は何度もその口元を覆い、赤子の泣きを外へこぼさぬようにしていた。


「賑やかなのに、なんだか妙な様子ですね」


 李蘭が言うと、鄭渾はうなずき、門の石段に目を落とした。磨かれた石の上には砂の線が残り、誰かがあわてて掃き払った跡が残っている。兵は姿勢正しく立ち、槍をわずかに傾けて通行をさばいていた。すべてが整然としているのに、どこか血が通っていない。


 門をくぐると、儀仗の者が前に立ち、控えめに道を開けた。鄭渾の名を記した木札がすでに用意されている。誰かが先に知らせていたのだろう。道沿いの高楼には朱が新しく塗られ、絹の帷が風を受けてゆるく揺れていた。


「叔父上、門の上から楽の音がしました」


 鄭袤の耳は若く、遠くの響きをよく拾う。鄭渾は微笑して少年の肩に手を置いた。鼓の音が確かに石の腹を伝って揺れている。曲は優雅で、拍の乱れもない。然るに、通りを歩く男の背は丸く、女の足は速い。鄭渾は胸で兄の名をひとたび呼んだ。ここに道はあるが、行くべき道かは分からぬ。その思いを言葉にせず、ただ歩を進める。


 彼らが宿舎に荷を入れ終えたころ、袁術の使いの者が訪ねて来た。賓として迎えたいので、今日のうちに顔を見せてほしいのだという。鄭渾は礼を尽くして応じ、衣の襟を撫でた。李蘭は手で埃を払って袤の額を撫で、帯の結びの具合を確かめる。少年は緊張を胸に押し込め、小さく息を吐いた。


 案内の者に従って向かうと、広い中庭の石に目を奪われた。池の水は澄み、橋の欄干には花の彫りが施され、灯台の油は惜しまず満たされている。門を入るたびに香が変わり、音は絶えず、賑わいは薄い絹のように、肩の上にすべって落ちた。


 出迎えは過不足なく、礼にかなっていた。名と出自が唱えられ、坐に通される。卓の上は色に満ち、器は最高級の品が揃えられ、金の縁が油灯の火を柔らかく返した。香草の良い香が食膳に移り、羹(あつもの)は湯気を立てる。麦は甘く、魚は骨まで巧みに骨抜きにされている。口に運べば確かに旨い。


 やがて、袁術(えんじゅつ)が現れた。笑みは穏やかで、言葉のはじめに相手の名を呼ぶことを忘れぬ。席に着く前、鄭渾の前に留まって言った。


「鄭文公殿、遠き道を労であった。君の名は公業からよく聞かされていた。よく来てくれたな」


 鄭渾は礼を返した。対する袁術の目は澄んでいる。何も映さぬほどに。


 「此度は道半ばで残念なことであったな。……道中は如何であった。ここは南であるから、冬でも寒さは穏やかであろう。食は口に合うか。羹は都でも評判の法で拵(こしら)えさせた。民にもこうした温かいものを行き渡らせたいと、いつも思っているのだ」


 言葉は真顔であり、虚飾は微塵も感じ取れず、誇りもまた、まじり気なく真っ直ぐだった。鄭渾は器を置き、穏やかに答える。


「ご厚意、身に余ります。道中は人の助けに恵まれました。食も十分です」

「よろしい。遠来の客は我が宝である。遠いほど良い宝だ。ここは何事も揃えてあるゆえな、暮らしは心配いらぬ。君のような人がいてくれれば、みなも心強い」


 袁術は杯を取り、まず香りを聞いてから口に当てた。幼いころより正しく教えられ、正しさに疑いを持つ機会のなかった者の手つきである。


「文公殿は学も行いもあると聞く。君子は世に用いられてこそ価が立とう。ここは人材を惜しまぬ。君とご家族には、まず安んじていただきたい。必要のものがあれば、すぐに申しつけよ」


 李蘭は杯を持つ手をおろし、鄭袤は箸の先で豆一つを転がした。少年は目を輝かせて広間の隅々まで見渡し、絃の音がどこから生まれるのか耳で探る。音は壁の裏からも床の下からも同じ精度で湧いていた。誰かが見えぬところで多くの手を動かしている。


 器が運ばれ、卓は香りを次々に変えた。肉は柔らかく、菜はつやつやと美しい。菓は甘く、舌に粘るほどの蜜がしみている。広間の柱にかけられた帛は鮮やかな色で揃えられ、灯の炎が近づくと色を深くする。すべてにおいて過ちがないからこそ、人の温が見つからぬ。


 袁術は客の顔色をよく見、言葉の間に間を置く。相手が言い損ねた言葉まで拾おうとする、よく教わった主人の坐りであった。しかし、彼の視線は常に同じ高さにあり、城の外へは決して落ちぬ。飢えの形を知ろうとして、飢えに触れた人の手の温度は知らぬ。悪意がない分、すべてを明るく信じている。


「民のことを案じている。市を賑やかにすれば、みなの心も明るくなろう。飾りがあれば、人は顔を上げて前を向く。君はどう思う」


 袁術の問いは真剣であった。鄭渾はわずかな間を置き、杯を持ち直す。


「飾りは人の心を正すこともございます。ですが、腹が満たされねば、人の背は伸びませぬ」


 絃の音が一息細った。袁術は笑みを崩さずにうなずく。


「腹もまた、飾りのうちであるように思う。君の言葉は学びになるな。覚えておこう」


 やがて宴は終いに向かい、礼は再び丁寧に重ねられた。贈り物として上等の帛と良い油が用意され、宿への送迎も支度される。辞すると堂の空気は何事もなかったように元の形に戻り、香の煙が天へ寄っていった。


 外へ出ると、夜風が肌に触れた。鄭袤は歩幅を小さくし、李蘭の袖に指先をかける。さきほどまでの明るさが遠くなると、耳に町の音が戻ってきた。遅い帰りの足音や遠い咳。昼間は飾りの陰に隠れていた音であった。


「文公さん」


 李蘭が呼ぶと、鄭渾はうなずいた。言葉に出来ぬ思いが、互いの歩みの速さで伝わる。袁術は礼を尽くした。尽くした分、見えぬものが見えた。ここには豊かさがあるが、袁の豊かさは城の中に限られ、城の外には渡らぬ。城の外に手を伸ばす心を持たぬほどに、澄んだ礼で満ちている。


 宿の灯が見えると、鄭袤が小さな声で言った。


「叔父上、あの広間はきれいでしたね」

「そうだな」

「でも、みな幸せそうに見えませんでした」


 少年の言葉は自分の胸の中で形になったものである。



  ×  ×  ×  



 それから幾月かの思案ののち、鄭渾は宿の几で筆を執った。


『兄・鄭泰は病を以て逝き、甥・袤を私に託し置きました。


 私は袤の道を誤らせまいと願い、南へ身を移し、淮南に至りました。公路殿の礼は厚く、衣食の憂いはありません。然れども、城の飾りに比して門外の色やせ、民の暮らしは辛く見えます。愚見ながら、ここは長くとどまるべき地にあらずと感じました。


 子魚殿は兄の旧交にして徳の人。袤の学ぶべき道、寄るべき地、仕うるべき人につき、ご教示を賜りたく存じます。』


 筆を置くと、墨は端から乾いていった。書簡の上に残る黒は濃く、灯の火にわずかに艶を帯びる。鄭渾は文の行を目でたどり、一字ごとに自らの呼吸を合わせた。兄の名が文のうえで冷えぬよう、心の温を指先に呼び戻す。


 ふと目をやった鄭袤の寝顔に影がかかり、眉の線が少年のものからわずかに男のものに見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。