01 行方
欠けのある古い碗も、布で磨けば輝きを取り戻す。土壁の家の中で、温炉の炭がときおり小さく音を立て、赤い芯が息を吸うたび明滅していた。卓には麦粥が置かれ、刻んだ菹と豆を煮たものが小皿に分けられている。
鄭渾は箸をとり、向かいの少年に目をやった。甥の鄭袤が背筋を伸ばし、碗を両手で包んでいる。湯気が眉にかかり、鼻先が赤い。脇では妻の李蘭が、熱の抜けぬ鍋を押さえながら笑った。
「今日の豆は、少し硬かったですねえ」
「まあまあ。歯が鍛えられて良いじゃないか」
「それなら袤の歯は、たちまち鉄になりますよ」
李蘭の言葉に鄭袤は照れたように笑い、粥に菹を落とす。
「叔母上、糸屋の張婆が縫い糸を分けてくれたのです。明日、礼を言いに行ってもいいですか」
「行っておいで。礼は欠いてはなりませんよ」
「はい」
この季節、外は早く暗くなる。戸口の隙間から入る風は、戸口のほこりを少し舞い上げた。鄭渾は箸を置き、鍋の火加減を見て、少しばかり木炭を足す。
「今日はよく食べるな、袤」
「書きつけをたくさんしたので、お腹が減ったんです」
「袤は偉いな」
褒める声は柔らかく、少年の目に光が差す。李蘭は碗の縁を確かめ、湯気の向こうから夫の顔を見た。
「文公さん。明日、市へ行って来ますね。菹にする菜をいくらか買ってきます」
「頼むよ。お前の目は確かだからね」
鄭渾はうなずき、卓に目を移す。
そのとき、戸が二度、遠慮がちに叩かれた。李蘭が立ち、鄭袤が後に続く。戸を少し開くと、夜風が入ってきた。戸口に立っていたのは、見知った顔の書吏である。どこか気まずそうな様子で、手に書簡を持っていた。
「遅うなりました、鄭さん」
鄭渾が出て礼を返す。
「寒い中、ご苦労様です」
「急ぎにてお預かりしました。……お手ずから」
書吏は書簡を両手で差し出した。封泥が施され、紐は固く結わえてある。李蘭は灯を近づけ、鄭袤は息を止めて見守った。
封泥を割る音が妙に室に響いた。鄭渾は書簡を開き、目で読み、胸のあたりで一度止める。
『鄭公業、病没。喪は礼によりて治す。家人に報ず。』
書簡の軽さが胸にしみた。書吏は目を伏せ、粗衣の襟をきちんと合わせる。
「道すがらと聞きました。詳らかは追って……。お悔やみ申します」
「わざわざ、ありがとう」
鄭渾の声は落ち着いていた。李蘭はただ一言礼を言って頭を下げ、鄭袤は小さく会釈した。書吏は長居を避け、戸口で再び身を正す。
「また明日、役からの言づてを持ってきます」
「お手を煩わせます」
戸が閉じると、夜は元の姿に戻った。温炉の炭がふと鳴り、湯気が立ちのぼる。書簡は卓の端に置かれ、油灯の火が書簡を照らした。李蘭は黙って欠け碗を持ち、鄭袤は叔母の手元を見つめる。家の中は常と同じ形なのに、見えぬものがひとつ遠くへ行った。
李蘭が、ようやく小さな声を出す。
「温まるから、もっと粥をお食べ」
鄭袤はうなずき、粥を少しよそった。匙が碗に当たる音がやけに遠くに聞こえる。鄭渾は書簡を巻き直し、紐をゆるく結び直した。卓の角に手を置き、木目をなぞる。木の感触は確かで、手の温かさはここにあった。
その夜は、炭がいつもより長く燃えた。書吏が去ってからしばらく、三人は卓を囲んだまま炭がはじける音を聞いていた。やがて李蘭が立ち、箸を揃えはじめる。鄭袤は叔母の傍に身を寄せ、ふいにその手の甲に指先で触れた。
「叔母上」
「大丈夫ですよ」
鄭渾は温炉の火へ顔を向け、束の間目を閉じた。炎が黙って炭を照らし、李蘭は箸と碗を音を立てぬよう重ねる。その手つきに、鄭袤の肩がわずかに落ち着く。
「袤のお父上は、よく走る方でしたね」
李蘭の声は油灯の火ほどの明るさで続いた。
「止まらぬ人でした。人が迷うと先に道を歩き、ここだよと振り返る人でした。……ようやく、足を止める場所へ着いたのね」
鄭袤は顔を上げて叔母を見つめた。言葉の先に涙の色があったが、李蘭はそれをこらえ、笑みの形を口元に浮かべる。鄭渾は兄の名を心で呼んだ。声を出して呼べば、夜が崩れる。鄭袤がためらいがちに口を開いた。
「叔父上」
「うん」
「これから、どうなるのですか」
少年の声は真っ直ぐであった。鄭渾は立ち上がらず、卓の縁に手を置いたまま鄭袤の目を見た。火の明かりが、少年の瞳に小さく揺れている。
「まず、今夜はよく眠ろう」
そう言って、鄭袤の髪に手を置いた。少年はうなずき、顔を伏せる。
寝所に入り、鄭袤は身を縮めた。褥と衾は馴染み深い。疲れが先に眠りを連れてくる。灯が落ち、暗くなると、李蘭は鄭渾の肩に手を置いた。言葉は交わさず、手の重みで、胸にあるものを分け合った。
夜の寝所はひっそりとしていた。鄭袤が呼吸を刻むと、掛けものの端が胸の上下に合わせてわずかに動く。李蘭はその寝顔を見やり、声を落として夫にささやいた。
「文公さん」
「なんだい」
「役から、今日にも人が来るでしょう。葬の式や届けのことを」
「うん」
言葉の間を長く取る。
「……兄上は袤を頼むと、いつも言っていた」
鄭渾は寝所の柱に手を置いた。木の冷えが掌に移る。
「守ってみせる。約束だからな」
沈黙ののち、李蘭が目を伏せた。
「ここに留まるのは、この子のためには良くないかもしれませんね」
「そうだな。人の出入りが多くなれば、兄上の子ということで袤に目が集まるだろう。……淮南へ行こうか」
その名を口にすると、部屋の空気がわずかに動く。李蘭は顔を上げた。
「公路様のところなら、落ち着けるでしょうね。袤を飢えさせるようなこともないでしょう」
「頼るより、避けるためだぞ」
「分かっていますよ」
ふたりは同じ方角を見る。そこには眠る少年がいるだけだった。
「明日から支度を始めよう。苦労をかけるね」
「今さらですよ」
李蘭の口元にわずかにいつもの笑いが戻る。外はまだ暗く、夜はゆっくりと更けていった。
× × ×
旅立つ朝、戸口に荷が並び、近所の人々が集まってきた。戸柱に手を置くと、木に昨日までの温かさがまだ潜んでいるように思えた。
「これ、干した柿。道々、口にあてな」
「子どもに旅は辛かろうが、しっかり歩くのだよ」
老女が鄭袤の頭に掌を置き、若者は紐を締め直すのを手伝ってくれた。隣家の若嫁は小さな針山を布に包んで差し出し、老人は、川筋は風が強いからしっかり着込め、と一言添える。李蘭は腰を折り、一人一人に礼をした。鄭渾は荷の最後の結びを確かめ、頭を下げる。
「お世話になりました。みな様も、どうか健やかに」
路に立つと、遠くで小さな鈴が鳴り、どこかの荷車がゆっくりと角を曲がった。鳥が飛び立ち、風を切る。
「行こう」
足が地を踏むと、鄭袤は二、三歩ののちに立ち止まり、振り返った。戸は閉ざされ、敷き藁に残る三人分の足跡が門の前で重なっている。そこに、昨夜までの湯気や笑いが残っている気がした。
少年は息を吸い、肩を張った。鄭渾はその動きを横目にとらえて歩調を揃える。李蘭がうなずき、一行は道を取った。足跡はやがて並び、角を曲がるころには、見送る人々の姿も音も、黎明の中へ溶けていった。




