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06 邵陵

 一陣の風が砂を舞い上げる。邵陵の町の瓦はところどころ欠け、溝の水は濁って流れが止まりかけている。昼から酒をあおる者が軒先に腰を落とし、籠に入れた小魚を数えては、明日のことを考えぬ顔で笑っていた。


 川辺には網と仕掛け籠が積まれ、刃の甘くなった銛が地に突き立てられていた。畔は崩れ、畑は草に覆われ、桑の枝は剪(き)られずに伸び放題である。家々の前には壊れた鋤が置き去りにされ、倉の戸は半ば外れて、雨の跡が板に染みを残していた。子らは裸足で走り、泣く声が風にさらわれる。大人は見ても近づかず、手を貸す姿はない。


 吏舎の戸をくぐると、簿は散らばり、封泥の割られていない書簡が隅に積まれていた。筆は乾き、墨は砕け、印の石は埃をかぶっている。民に呼び出された小吏は目をそらし、言葉は要を得ぬ。


「訴えは承った。明日、見分に参る」


 鄭渾は几の縁に置いた指を軽く鳴らした。


「明日で救える盗みもあろうか」


 小吏は慌てて筆を探り、声を落とす。


「書付が片づきませぬ。今日のうちは……」


 里の争いは長らく放置され、罰は形だけにとどまり、やがて誰も恐れなくなったのであろう。鄭渾は無闇に声を荒げず、吏の顔と手の動きを順に見た。秤と物差しが壁から外れ、誰の目にも見えぬ場所に片づけられて久しい。分ける場が曖昧になれば、働く手は力を失い、疑いが先に立つ。そうなって久しい町の気配があった。


 李蘭は市のはずれを歩き、女たちの言葉に耳を澄ませた。夫が川に出たまま戻らず、畑を起こす者がいない家。乳が出ず子に薄めた粥を少しずつ含ませる家。縁側には破れた麻布が干され、誰かの古衣を継いで着せた痕がある。戸口の挨拶は短く、目が長くこちらを見送った。


 夕刻、鄭渾は町を回った。水門の板は歪み、分け口は勝手に上げられた跡がある。誰の裁きも通らぬところで、早い者が先に取る習いが出来上がっていた。下手な穀は枯れ、畝も年ごとにやせ、桑から落ちる葉を拾う手は細くなっている。小さな盗みは日常の形に紛れて、誰もそれを罪と呼ばなくなっていた。


 吏舎に戻ると、几の端に置かれた古い印を布で拭い、鄭渾は据え直した。荒れた畑に初めの鍬を入れるように、施す手を少なく、働く手を多く。心の中にその順をひとつずつ並べる。


 いかにしたものかと思案していると、李蘭が湯を運んできた。淹れ口の縁に指を添えながら、妻は何も尋ねぬ。町の呼吸はままならぬが、ままならぬものほど、動き始めるとよく進むことがある。湯の熱が喉を過ぎ、胃の腑に落ちる。夜は深まるが、明日の用はもう揃い始めていた。官吏を集めねばならぬ。まずはそこから、秤と板を元の場所へ戻す。


 明朝、吏舎の広場に人が集められた。地の上に長い板が二枚、秤と物差しと並べて置かれている。鄭渾は印の石を拭い、几の中央に据えた。風が止み、声の行き交いも途切れる。


 初日、鄭渾は最前列の里正に目で合図し、板を水門へ運ばせた。溝に張られた水がすこし澄み、板がはまる。里ごとに立会いを三人とし、印を押す場所を板の端に刻ませた。上下の目盛りは物差しで定め、書きつけは誰の目にも届くように吏舎の前の壁に掛ける。秤は几の上からおろされ、人の前に戻った。


 鄭渾が布令を読み上げる。


「川の網と籠、銛は官に預け置きとする。その際、証を与え、秋の終わりに限りを定めて返す。違えたときは罪とし、網は没する。田を開く者には種粟を貸す。借りた名を籍に記し、収めるときは畝に応じて返させる。返せぬ者には手を添え、返せる年に返させる。桑を切らせ、蚕架を家々に分ける。糸の取り方は里で教える。怠る者は課を増し、働く者の課は軽くする。子を捨つること、育てを放つことを禁ず。里は見つけ次第これを抱え、吏は倉の粟を以て粥を与える。面倒を見る家には名を記し、年の終わりに帛を一重与える」


 読み上げはそこで止まった。どよめきが一度起こり、吏のひとりが手を挙げて恐る恐る問う。


「預け置きと仰るが、取り上げではないのですか」


 鄭渾は印を拭って告げた。


「取り上げぬ。秋に返し、証は印で残す」


 別の吏が眉を寄せる。


「返せぬ年は、罪に問うのですか」


 鄭渾が顔を上げた。


「罪にはしない。働きの手を添え、返せる年に返せばよい」


 里正が前へ出る。


「見つけた子は、まずどこへ」

「里で抱え、倉の粟で粥を与える。世話の家は名を記す」


 官吏たちは互いに顔を見やり、誰からともなく前へ出て板を支えた。喉元の硬さは残るが、秤と物差しがみなの前に戻ったことで、町の呼吸がわずかに変わった。


 邵陵に鄭渾の治が馴染んだころ、捨てられた子が里の者に抱えられて吏舎に運ばれた。簿に名のない小さな命である。倉の粟で粥を煮、世話を請け負う家を里正が探す。名を記し、年の終わりに帛を一重渡す手当ては、すでに決まりとして周知されていた。李蘭はその家に帛の端を届け、子の寝場所の風当たりを確かめてから帰る。


 季節がひとつ変わるころ、女たちの背は自然に伸び、男たちの掌には鍬の痕が固く残った。華歆の下で見たやり方はここでも通う。吏舎の広場に積まれた網と籠は影を落とし、札の束は几の端で重なっている。


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