第44話:一ノ瀬保奈美
数日前から――直也さんの咳が気になっていた。
ほんの軽い咳払い。本人は「大丈夫だよ」と笑っているけれど、私には分かる。
声の奥が少し掠れていて、呼吸もわずかに深い。
仕事が一番忙しい時期だからこそ、無理をしているのだ。
でも、口に出しては言えない。
今の直也さんに「休んでください」なんて言えるわけがない。
だから私にできることは――せめて、家では少しでも力を抜いてもらうこと。
今日は鶏肉のポトフを作った。
京風の薄味を好む直也さんに合わせて、コンソメも控えめに。
鶏肉は煮込む前に丁寧に下処理して、骨を外してほぐす。
疲れて帰ってきても、スプーンひとつで口に運べるように。
鍋からは、透明感のある黄金色のスープの湯気が立ちのぼっていた。
にんじんやじゃがいもからにじみ出た甘みと、鶏肉のやさしい旨みが混じり合う。
立ちのぼる香りは、家全体をふわっと包み込んで――まるで「おかえりなさい」と語りかけてくるようだった。
「薄味だけだと飽きてしまうかな」
そう思って、粗挽きのウインナーを少しだけ加えた。鶏の旨みを邪魔しない程度に。
人参やじゃがいもも大きさを揃えて切り、見た目も食べやすさも意識する。
料理を仕上げながら、私は心の中で祈っていた。
――直也さん、今夜は少しでも食べてくれますように。
※※※
玄関のドアが開く音。
控えめに靴を脱ぐ気配。
「……ただいま」
少し疲れた声。
私はすぐに台所から駆け寄った。
「おかえりなさい、直也さん」
思わず笑顔になる。けれど胸の奥は心配でいっぱいだった。
ネクタイを緩めて入ってきた直也さんは、やっぱりどこかしんどそうだった。
「仕事が立て込んで、気づいたらこんな時間になってしまったよ」
「そうなんですね。ご飯は……?」
「食欲は、あんまりないかな。でも――折角作ってくれたなら、少しもらうよ」
その言葉だけで、胸があたたかくなる。
テーブルに並べた献立。
鶏肉のポトフとフランスパン。
重たくならないように、今日はパン食にしてみた。
直也さんがスプーンでポトフをすくい、ひと口。
湯気の中からふわりと漂うやさしい香りに目を細め、ゆっくりと口に運ぶ。
「……ああ、優しい味だなぁ」
その表情が、ふっと和らいだ。
「義妹ちゃんは本当に料理上手だな。――いいお嫁さんになるなぁ」
「えっ……!」
カァッと頬が熱くなる。思わずスプーンを落としそうになった。
「な、なに言ってるんですか、直也さんっ!」
「いや、深い意味はないぞ!? 料理が、って話で……!」
慌てて手を振る直也さん。
「だ、だめです……そういうの、軽く言っちゃ……」
唇を尖らせる私に、直也さんは苦笑して頭を掻いた。
「悪かったよ。褒めたつもりだったんだけどな」
「……もう」
小さく呟きながらも、胸の奥では嬉しさが抑えられなかった。
でも次の瞬間――ごほっ、と咳がこぼれた。
胸が痛む。やっぱり無理してる。
※※※
直也さんが食事を終えたので片付ける。
「直也さん、肩もみしてあげますね」
「いや、大丈夫だよ。疲れてるのは義妹ちゃんの方なんだから――」
「ダメです!」
強引に背後に回り、肩を叩く。
ごりごりと硬い筋肉。触れて分かるほどの緊張。
「ほら、やっぱり凝っているじゃないですか」
「う、うん……でも、そんなに力入れなくても……」
「遠慮しません!」
思わず声が大きくなる。
――それくらい、本当に心配なんだ。
咳がまた出た。
私はたまらず、後ろからぎゅっと抱きついた。
「……無理だけは、絶対にしないでね」
耳元に届いた私の声に、直也さんは少し驚いたように息を呑んだ。
沈黙が数秒流れる。
拒むでもなく、抱き返すでもなく――ただ肩越しに、彼が「義兄」としての線を守ろうとしているのが分かった。
それでも、離れたくなかった。
そのぬくもりに触れていると、胸の奥の不安がほんの少しだけ溶けていった。
※※※
食後、直也さんはリビングでパソコンを開いて仕事を再開した。
私は少し離れたソファでノートを広げ、勉強を始める。
でも、時折視線がそっと彼に向かってしまう。
真剣に画面を見つめる横顔。
咳き込まないかどうかを気にしながら、私はペンを走らせ続けた。
――未来を諦めないって、言ってくれた人。
だから私も、未来を諦めない。
料理でも、勉強でも、何でも。
私にできることを積み重ねて、直也さんを支えていくんだ。




