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第40話:一ノ瀬保奈美

 玄関のドアが開く音がした。

 ぱたん、と控えめに靴が脱がれる気配。


 「……ただいま」

 低く、少し疲れた声。


 私は急いで台所から顔を出した。

 「おかえりなさい、直也さん」

 笑顔を作る。だけど、心配の気持ちが先に立ってしまう。


 ネクタイを緩めて入ってきた直也さんの表情は、やっぱりどこかくたびれていた。

 「ちょっと……飲んできた」

 かすかにお酒の匂い。

夕方に電話してくれていた。

今日はどうしても外で外せない予定が出来たとだけ聞いていた。

 「そうなんですね。ご飯は……」

 「食欲は、あんまりないかな。でも――折角作ってくれたなら、少しもらうよ」


 その言葉だけで胸があたたかくなる。

 私は急いで準備を整えた。


※※※


 白いご飯。

 なめこのお味噌汁。

 ししゃもを軽く炙って、卵焼きを添える。


 簡単だけれど、心を込めた献立。

 魔法のレシピ帳に書いてあった――直也さんが好きなお味噌汁は、なめこ。

 それを思い出して、どうしても今夜作りたかった。


 お椀を置くと、直也さんは箸をとり、ゆっくりと味噌汁を口に運んだ。

 ひと口。

 その瞬間、固く見えていた表情がふっと和らいだ。


 「……ああ、懐かしい味だなぁ」

 小さな吐息みたいな声。

 その声を聞いて、胸の奥がじんわり熱くなる。


 ししゃもを口にしながら、直也さんは私を見て言った。

 「義妹ちゃんの料理、本当に美味しいな。どうしてこんなに作れるようになったの?」


 一瞬、心臓が跳ねた。

 魔法のレシピ帳のことを思い出してしまった。

 でも――言えない。これは秘密。


 私は慌てて笑い、両手を背中に回した。

 「ふふ。ひみつです!」


 直也さんは驚いたように目を丸くしたあと、ふっと笑った。

 「そっか……じゃあ、その秘密は秘密のままにしておかないとな」


 その笑顔を見て、胸がいっぱいになる。

 ――もっと、力になりたい。

 疲れて帰ってきた直也さんを、こうして迎えられる自分でいたいな。


 「ご飯を美味しくする最高のエッセンスは愛情」

 ふと、そんな言葉を思い出した。

 お椀を両手で包みながら、私はそっと頬を赤くした。


※※※


 夕食を終えて、片付けを済ませる。

 リビングでは直也さんがノートPCを広げて、静かにキーボードを叩いていた。

 画面には英語の資料や数字の表が映っていて――その背中は、もう社会人の“大人の顔”をしていた。


 私は少し離れたソファに座り、ノートを広げた。

 ――進路指導室で聞いたことを、改めて自分で調べてみよう。


 スマホを片手に検索する。

 「家政学部」「生活科学部」。

 思っていたよりも幅広い内容で、栄養や食品、住居や被服……生活を支える知識を専門的に学べるとあった。


 その中でも――水道橋女子大学。

 国立で、伝統のある学校。

 家政や生活科学系では特に評価が高い。


 「……ここ、かぁ」

 小さく呟く。

 でも同時に、胸がぎゅっとなる。


 私は直也さんみたいに、勉強が得意なタイプじゃない。

 成績は良くも悪くもない程度で、トップクラスではない。

 東都大学理学部を卒業して、五井物産に就職して……なんて経歴、到底かなわない。


 でも――だからといって諦めたくない。

 未来をあきらめないって、直也さんが言ってくれたから。


※※※


 ノートの余白に、目標を書き込む。

 【英語】 【数学】

 この二つに力を入れる、と。


 「数学は……直也さん、得意なんだよね」

 思わず口元が緩む。

 ちょっとくらい、教えてもらえるかもしれない。

 でも――迷惑かな。仕事の邪魔になっちゃうかな。


 そんなことを考えては、ペン先が止まり、また動き出す。


※※※


 「……よし」

 小さな声で自分を励ましながら、英単語を書き写していく。


 隣では、直也さんが真剣な表情で資料を読み込んでいる。

 カタカタとキーを打つ音と、私がノートにペンを走らせる音が、リビングに静かに溶け合っていた。


 同じ時間を、同じ場所で過ごしている。

 それだけで、不思議と安心できる。


 ――未来はまだ遠い。

 でも、こうして一歩ずつ近づいていけば、きっと辿り着ける。


 そう信じながら、私はノートの文字をもう一段濃くなぞった。

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