第140話「龍哭山の誤訳戦争」~龍と将軍、そして誤訳の山~
山岳地帯の風は、鉄の味がした。
蒼嶺シンフォンを出て数日、僕たちはヨイノの国への帰路、険しい峠に足を踏み入れていた。
けれど──。
「た、たかみち……あれ、龍?ねぇ龍だよね!?」
「龍どころか、軍隊もいますけど……」
谷底に響く轟音。反対側の崖では鎧を着た将軍たちが剣を抜き、こちら側の岩棚には巨大な龍が翼を震わせていた。
そしてその真ん中に、妙に気まずそうに立たされているのが、僕たちだった。
「……なんでこうなるんですか」
僕がため息をつくと、朧丸が肩を竦める。
「お前が“中立の通詞”に見えたんだろう。あまりに無害そうで」
「ほめてます?それ」
ツムギは荷物を抱えたまま、ぷるぷる震えている。
「ねぇこれ、戦になるやつ?巻き込まれるやつ?私、温早く帰りたいんだけど!」
いや、僕だって帰りたい。
そんな中、龍側の代表がこちらへ進み出た。
青銀の鱗を持つ壮年の龍──その名は「蒼牙」だという。
……いや、ショウガ?
ちょっと美味しそうだな、とか思ってしまった僕を殴りたい。
対して人間側の将軍は、筋骨隆々の壮年の男。名を「北陵将軍」と言う。こちらは間違いなく強そうだ。
二者は、同時に僕へ怒鳴った。
「通詞よ!聞け!龍族は“我らを呪う祈り”を毎日山上から放っておる!」
「違うわ小童!人間こそ“龍を滅ぼす言葉”を吐いておる!」
……これは。
僕は眉をひそめた。
「お二方、その“祈りの言葉”、聞かせていただけますか?」
蒼牙は胸を張り、厳かに唱えた。
『タン・ロン・ジィエ──カンシャ……』
一方、北陵将軍も太い声で読み上げた。
『カ・ロン・シャア──カムサ……』
ツムギが即座に耳を押さえる。
「なんか呪文っぽい!やばいやつ!!」
いや、これは──。
僕は、そっと笑ってしまった。
「……お二人とも、これは“感謝の祈り”ですよ」
谷が、しんと静まり返った。
龍将と北陵将軍が、同時に目を丸くする。
「か、感謝……?」
「呪いの響きではないのか?」
「ええ。“カンシャ”も“カムサ”も、どちらも“ありがとう”という意味です。この山に住む古民の言葉の名残ですね。世代が変わるにつれ、響きが少しずつ変わり……互いを呪っているように“誤解していた”だけです」
僕が説明すると、二人の偉丈夫はぽかんと口を開けたまま固まった。
あ、止まった。
将軍も龍も、完全に石像みたいになっている。
そのとき朧丸がぼそっと呟いた。
「……つまり双方とも、毎日“ありがとう”を叫んで威嚇していたわけか」
ツムギが腹を抱えて笑い出す。
「なんか平和すぎる!!」
龍と将軍は顔を赤くし、何か言葉を探していた。
僕はそこで、軽く咳払いをした。
「……孫子に“彼を知り己を知れば百戦殆うからず”という有名な言葉があります」
二者の視線が、なぜか妙に真剣になる。
「本来は戦略の話ですけれど……“相手の言葉を知ろうとする姿勢”も同じです。
知らないまま憎むのは、誤解という名の戦を生みます。今回のように」
蒼牙の青い瞳が、静かに伏せられる。
北陵将軍も深く息を吐いた。
「……我らは、互いを知ろうとしておらなんだ」
「憎しみを前提に聞いておったわけだな……」
そこでツムギがぴょんと手を挙げた。
「ねぇ!だったらさ、これからは“ありがとう合戦”にしたら?ほら、毎日山の上からお礼を言い合うの!」
蒼牙と北陵将軍が同時に渋い顔をする。
「……うむ、それは恥ずかしい」
「ワシの兵たちが困惑するわ」
あ、やっぱりダメか。
しかし、代わりに蒼牙が僕に向き直る。
「通詞よ、礼を言う。お前の言葉が、戦を止めた」
「ありがとうございます。言葉は……時に剣より鋭いので」
北陵将軍も片膝をつき、礼を述べた。
「おぬしが来なければ、我らは血を流しておったろう。恩に着る」
……普通に礼儀正しい人たちだ。
ツムギが小声で僕に耳打ちする。
「ねぇ……今回、高道のモテ期じゃない?」
「なんでそこでモテ期になるんですか」
「だって龍と将軍に惚れられてるでしょ!」
惚れられてない。
朧丸が鼻で笑った。
「……まぁ、高道は無害だ。近付きやすいんだろう」
「無害って言い方やめません?」
そんなやり取りをしていると、山岳地帯に柔らかな風が吹き抜けた。
敵意ではなく、穏やかな和解の風だ。
やがて龍族の軍勢は谷奥へ、人間の軍は山を下りはじめた。
「……はぁ、終わった」
ツムギがその場にへたり込む。
朧丸は軽く伸びをした。
「まぁ、いい経験だったんじゃないか?」
「私は怖かった!」
二人が騒ぎはじめたので、僕は苦笑する。
ただ、一つ確信したことがあった。
──言葉は戦にもなれば、救いにもなる。
今回、救いになったのは幸運だ。
けれど次はどうだろうか。
僕は懐の筆筒を握る。
「……兵は詭道なり。言葉こそ、最も鋭い兵ですね」
霧の晴れた山道の先には、ヨイノの国の空が広がる。
これで、一件落着と思ったんだが…
龍軍の方がなにやら騒がしい。




