第139話「月灯楼の朝、別れの灯」〜旅館に刻む感謝〜
蒼嶺の国の朝は、まるで水墨画のように淡い。
山々の稜線が霧に溶け、薄青の空を少しずつ白へと押し広げている。
高道たちは荷をまとめ、静まり返った廊下を歩いて、旅館『月光楼』の玄関へ向かった。
扉の前には、既に一人の少女が立っていた。
──シンレン。
キョンシーの血を持つ宿の主。
その姿は凛としていて、年齢よりもはるかに落ち着き、まるで月の光が人の形を取ったかのようだった。
「おはようございます。……いえ、旅立ちのご挨拶を申し上げるべきでしょうね」
澄んだ声は、静かな朝の空気に優しく溶けていく。
高道たちが近づくと、シンレンは小さく会釈した。
「本日で月光楼を発たれると伺いました。
短い間でしたが、皆さんと過ごした日々はとても勉強になりました。」
その丁寧さは、まるで数十年宿を営んできた老舗の女将のようだった。
朧丸が少しだけ表情を崩し、気恥ずかしそうに言う。
「……世話になったな。飯もうまかったし、布団もふかふかでよく眠れた」
「キョンシーの宿で“よく眠れる”と言われるとは、光栄です」
くすり、とシンレンは品よく笑った。
その笑みはどこか寂しげで、しかし誇りを含んでいる。
「シンレン、本当にありがとう」
高道が深く頭を下げると、シンレンは少しだけ目を揺らした。それでもすぐに落ち着いた表情へ戻る。
「……高道さん。わたしの方こそ、感謝しきれません。あなたは、“旅館とは人を迎える場所だ”という父の言葉を思い出させてくださいました。
先代を失ってから、わたしはずっと迷っていたのです。
月光楼をどう守ればいいのか、どう立て直せばよいのか……自分の足が地に着いていない気がしていました」
淡い朝光の中、シンレンの表情はとても静かで、どこか大人びた哀しみを含んでいた。
「でも、あなた方に来ていただいて……気づけたのです。
わたしはまだ未熟かもしれませんが、それでも“主”として胸を張りたいと」
高道の胸がじんと熱くなる。
自分たちが、彼女の背を少しでも押せたのなら、こんなにうれしいことはない。
ツムギが両手を胸の前で握りしめ、ぱっと目を輝かせた。
「シンレンちゃん、すごいよ!だって、あの日の夜……すごく楽しそうにお茶を淹れてくれたもの!」
「……まあ。わたしが“楽しそう”に見えたのですか?」
「うん!なんか柔らかかった!」
シンレンはほんのわずか、目を伏せた。
「……そうかもしれませんね。
あなた方と過ごした夜は、とても穏やかで……久しぶりに、心が楽になりました」
その声は静かに震えていた。
朧丸が小声でマキビに囁く。
「……なんか泣きそうじゃねえか」
「泣けるのかなあ、キョンシーって」
「泣けなくても、心はあるだろ」
ふたりのやり取りを横目に、シンレンは一歩進んで高道に向き直った。
「最後に、ひとつだけお願いがあります」
「……なに?」
「どうか、また月光楼へお越しください。
次にいらしたときには、父の名に恥じぬ宿にしておきます」
その言葉には、決意と揺るがぬ強さが宿っていた。
高道はまっすぐに頷く。
「もちろん。また来ますよ。
シンレンが“主として立つ姿”を、もう一度見たいですからね。」
「……ありがとうございます」
シンレンのまぶたがわずかに震える。
涙を落とすことはないが、感情の波が確かに彼女の中で揺れていた。
その時、シンレンは懐から一冊の小さな帳面を取り出した。
「父が残した宿帳です。
わたしだけでは読み解けない部分が多く、高道さんなら理解できるのではと……お渡しします」
「え、いいんですか?大事なものじゃ……」
「ええ。だからこそ託すのです。
“言葉を扱う者を信じよ”と、父は生前よく申していました。
高道さんならば、この宿が向かうべき先を……見つけてくださる気がするのです」
その瞳は真っすぐで、凛としていて、まるで夜空に輝く薄月の光のようだった。
「……わかりました、大切にします。何かわかったら連絡する」
「よろしくお願いします」
シンレンはふわりと微笑んだ。
その瞬間──
月光楼の玄関に張られた結界の鈴が、風もないのに音を立てて揺れた。
ツムギが目を丸くする。
「……今の、なあに?」
「ご挨拶ですわ。
この宿が、あなた方を“またおいで”と呼んだのでしょう」
どこか誇らしげにシンレンは言った。
旅館そのものが、主の心と共鳴しているかのようだった。
少し歩き、山道に差し掛かったところで、ツムギがぽつりと呟いた。
「……シンレンちゃん、やっぱりすごく大人だよね」
「うん。あの歳で宿を背負うなんて、簡単じゃないよ」
「キョンシーでも、悩むんだなあ……」
「悩むさ。生きるって、形が違っても変わらないよ」
高道のその言葉に、朧丸が静かに頷いた。
「……また来ようぜ。あの宿」
「もちろん」
高道は胸の奥でそっと呟く。
──月光楼。また来るよ。
そのときは、もっと胸を張って“ただいま”って言える自分でいたい。
風が吹き、蒼嶺の朝が清らかに光った。
それはまるで、見送るシンレンの想いが、風に乗って背中を押してくれるようだった。




