七日ぶりの夜五つ6
「若旦那様……」
「お酒、お注ぎいたします」
すぐ隣から聞こえた、
少し震える細い声。
お銚子を持つ小さな指先が、
白粉の白さとは違う、
生身の温かさを持ってそこにあった。
レオは黙って盃を差し出す。
トトト、
静かな座敷に酒の音が響く。
満たされた盃を口元へ運びながら、
レオは初めて、
その横顔を間近で捉えた。
黒地の着物。
少しだけ上気した頬。
そして、
伏せられていた睫毛がゆっくりと持ち上がる。視線が、真っ直ぐに交わった。
あ……
唯衣は小さく息を呑んだ。
あの夜は、
少し離れた場所から
見つめることしかできなかった。
けれど、今は違う。
手の届くような近さで見る、
白銀の髪。
そして、その奥にある薄い青色の瞳。
それは、
昼間に見上げた初夏の空のようでありながら、触れれば凍りついてしまいそうなほど、
冷たく、深く、澄んでいた。
誰も寄せ付けない、孤独な色。
なのに、どうしてだろう。
唯衣の胸の奥が、
きゅっと切なく締め付けられる。
「……良い音だった」
低い、心地よく響く声だった。
レオは盃を見つめたまま、
ぽつりと言葉を落とす。
「お前の三味線だ」
「濁ったものが、すべて消えていくような
音がした」
お世辞などではない、
ただの事実を口にするような淡々とした、
けれど確かな響き。
唯衣は驚いて目を丸くし、
それから、
胸の鼓動が跳ね上がるのを感じた。
「ありが、とうございます……」
唯衣はきつくお銚子を握りしめる。
「ただ、失敗しないことだけを
考えておりました」
「私の音など、まだまだ、姐さんたちには
及びません」
謙遜ではなく、本心だった。
新人の自分を、
この大店の若旦那が見つめてくれているなど、
今でも夢のようで信じられない。
「それがいい」
レオが短く言った。
ほんの少しだけ、
その美しい唇の端が、
柔らかく持ち上がった気がした。
「客に媚びるための音ではない。
ただ一心に、綺麗なままであろうとする音だ。
……俺には、それが酷く贅沢に聞こえる」
傀儡として、
求められるままに笑う花魁。
そして、
同じように望まれる役割を演じて生きる自分。
そんな歪んだ世界の中で、
唯衣のひたむきな音だけが、
レオの凍りついた心を優しく溶かしていく。
唯衣は赤くなった顔を隠すように、
そっと俯いた。
「また、聞かせてほしい」
「はい……。
「若旦那様がおいでくださるなら、いつでも」
そう答えた唯衣は、
自分の言葉の熱に驚いたように、
さらに深く俯いてしまった。
赤くなった耳たぶが、
黒地の着物と、
結い上げた黒髪の隙間で白く、
小さく震えている。
レオはその耳たぶから、
静かに視線を落とした。
自分の胸の奥でも、
ドクン、と不規則な音が跳ねている。
手を伸ばせば、触れられる距離。
お銚子を持つ唯衣の小さな指先に、
自分の指を重ねることだってできる。
大店の若旦那であるレオが、
気に入った新米芸者の手を握るなど、
この吉原では誰も咎めはしない。
(だが――)
触れてしまえば、
この「一滴の清水」のような綺麗な関係が、
大人の歪んだ色恋の泥に
染まってしまう気がした。
あの花魁のように、
人形の笑顔を向けられるようになるのだけは、耐え難い。
レオは、伸ばしかけた右手を、
自嘲気味に自分の膝の上へと戻した。
ただ、
じっと我慢するように、
拳を固く握りしめる。
唯衣もまた、
じりじりとした沈黙の中で、
胸が苦しくなるほどの緊張と戦っていた。
隣にいる若旦那様から、
冷たいはずなのに、
どこか熱い視線が注がれているのを感じる。
何か言葉を返さなければ。
けれど、
これ以上何を言えばいいのか分からない。
ただ、
お銚子を握る手にぎゅっと力がこもる。
私なんかじゃ、お話し相手にもなれない……
和歌や古典、
流行りの芝居。
昼間、
あんなに一生懸命勉強したはずの知識が、
若旦那様の前にいると、
すべて頭から吹き飛んでしまう。
ただ、彼の綺麗な白銀の髪と、
薄い青色の瞳の残像が、
頭の中を支配して離さない。




