七日ぶりの夜五つ4
ベン……。
静寂を裂くように、
最初の一音が座敷へ響いた。
澄みきった、
それでいて凛とした音色。
唯衣の指先が動くたび、
張り詰めた糸から幾重もの旋律が
紡がれていく。
レオの耳が捉えるのは、
その音だけだった。
一滴の清水。
誰にも触れられない胸の奥深くへ、
静かに、
静かに染み込んでいく。
(やはり、この音だ……)
心が洗われていくような錯覚。
傀儡として生きる日々の中で、
この音に包まれている瞬間だけは、
自分が確かに生きているのだと思えた。
レオは小さく息を吐き、
静かに盃を傾ける。
「……素晴らしい音でありんしょう」
甘い声が耳元へ落ちた。
気付けば翡翠が、
レオの横顔を覗き込むように微笑んでいる。
「若旦那がこれほど熱心に耳を傾けられるとは。
この三味線も果報者でありんすね」
翡翠はふと視線を流した。
その先には、三味線を奏でる唯衣。
「……なるほど」
誰にも聞こえぬほど小さく呟き、
意味ありげに目を細めた。
「ああ。良い音だ」
レオは短く答える。
「そうでありんすか」
翡翠は満足そうに微笑み、
それ以上は何も言わなかった。
演奏は続く。
翡翠もまた、
その音を乱さぬよう静かに寄り添う。
その時だった。
部屋の隅に控えていた禿がそっと膝を進め、
翡翠の耳元へ囁く。
次の座敷への迎えだった。
吉原一の花魁の夜は、
一人の客だけのものではない。
「……もう、そのような刻でありんすか」
翡翠は小さく息をついた。
極彩色の打掛が名残惜しそうに
衣擦れの音を立てる。
「楽しきひとときは、
いつも光陰のようでありんすね」
翡翠はゆっくりと立ち上がった。
鼈甲の簪が、
しゃらりと涼やかな音を鳴らす。
「若旦那」
「わっちはこれにて、
次の座敷へ向かわねばなりんせん」
「構わん。行きなさい」
淡々とした返事に、
翡翠はくすりと笑った。
「つれないお方」
そう言いながらも、
その笑みに寂しさはない。
「ですが」
「ご安心おくなんし」
翡翠は一瞬だけ、
三味線を抱える唯衣へ視線を送る。
「わっちが席を外した後も、
蒼月楼の芸者たちが若旦那を退屈させんよう、
しっかりと座を持たせてくれんす」
少し間を置き、
柔らかく微笑んだ。
「……なにより、
その澄んだ音色がお側にありんすから」
そう言い残し、
翡翠は優雅な足取りで座敷を後にした。
襖が静かに閉まる。
花魁が去った座敷は、
急に広くなったように感じられた。
濃厚な白檀の香りがゆっくりと薄れ、
代わりに初夏の夜風が窓からそっと吹き込む。
残されたのは、景と芸者たち。
そして、三味線を抱えた唯衣。
しばしの静寂の後、
姐さん芸者が静かに膝を進めた。
「若旦那」
「花魁がお戻りになるまで、
別の娘をお呼びいたしましょうか」
レオは盃を静かに置く。
「……いらん」
短い一言だった。
「かしこまりました」
姐さん芸者は深く頭を下げる。
唯衣は小さく目を瞬かせた。
その返事の意味を、
この場の誰もが測りかねていた。




