七日ぶりの夜五つ3
蒼月楼には定刻より少し早く着いた。
見世先には既に灯りがともり、
夜の賑わいが始まっている。
「真壁の若旦那、お待ちしておりました」
出迎えたのは、
この見世を取り仕切る女将の菊乃だった。
大見世の女将自らが顔を出すのは、
それだけ真壁家が上客ということだろう。
「さぁ、お部屋はこちらでございます」
案内された座敷へ足を踏み入れる。
金地の屏風。
床の間には見事な生け花。
焚かれた香がほのかに漂い、
雪洞の柔らかな灯りが部屋を照らしていた。
豪華でありながら、
どこか落ち着いた空間。
蒼月楼でも、
特に上等な座敷。
だがレオの興味はそんなことではなかった。
「あの芸者は来るのか」
思わず口から出そうになり、
レオは盃に手を伸ばした。
盃を傾けるレオの耳に、
廊下から衣擦れの音が届く。
「ご免なさいまし」
静かな声と共に襖が開いた。
先頭の禿に導かれ、
ゆっくりと座敷へ入ってきたのは、
蒼月楼一の花魁・翡翠だ。
部屋の空気が一瞬で、
彼女のまとう濃厚な香りに塗り替えられる。
翡翠はレオの前で優雅に膝をつくと、
鼈甲の髪飾りをしゃらりと鳴らして微笑んだ。
「若旦那、ようおいでくださんした」
「またお目にかかれて、うれしゅうござりんす」
続いて、
部屋の隅へ滑り込むように入ってきた
黒地の着物の二人。
「若旦那、おめでとうございます」
姐さん芸者たちに交じり、
三味線を大切そうに抱えた小柄な芸者が、
静かに頭を垂れる。
唯衣だ。
伏せられた睫毛。
真剣な横顔。
レオの胸が、
わずかに高鳴った。
「また会えて光栄だ、翡翠」
レオは表情を変えぬまま、
差し出された盃を受け取った。
翡翠の白い指先が滑らかに動き、
琥珀色の酒が静かに盃を満たしていく。
「一週間ぶりでありんすが、
若旦那のお顔が見えぬ間、
わっちはまるで長い冬を過ごしているようで
ござりんした」
蕩けるように甘い声。
その声音とは裏腹に、
翡翠の瞳はレオの心の揺らぎを
静かに探っていた。
レオの隣に控える景は、
その一部始終を冷静に見つめている。
さすがは蒼月楼一の花魁……
言葉、
間、
視線、
仕草。
そのすべてが客の心をほどくために
磨き上げられている。
これほど見事なもてなしを前にしても、
若のお心は動かぬのか……
景が内心で感心する一方で、
当のレオの意識は
翡翠の美しい言葉をすり抜け、
部屋の隅へと向いていた。
地方の座。
姐さん芸者の隣で、
唯衣が静かに三味線を構える。
その時だった。
唯衣がふと顔を上げる。
客席へ向けた視線が、
偶然レオと重なった。
わずか一瞬。
薄い水色の瞳と、
柔らかな茶色の瞳。
静かな時間だけが二人の間を流れる。
「……若旦那?」
翡翠はその小さな視線の動きを
見逃さなかった。
首をわずかに傾げ、
意味ありげに微笑む。
その笑みが、
ほんの少しだけ深くなる。
唯衣ははっとしたように目を伏せ、
三味線へそっと手を添えた。
そして
小さく、けれど確かに
あの夜と同じ、
一滴の清水のような音が座敷へ流れ始めた。




