七日ぶりの夜五つ2
午後六時。
浅草寺の暮六つの鐘が鳴り響いた。
今日も吉原の夜が始まる。
真鍮の鈴の音。
若い者たちの威勢のいい呼び込みの声。
昼間とはまるで別の街へ姿を変えていく。
真壁の若旦那との約束は戌の刻。
およそ五つ時、夜八時頃だった。
唯衣はそれまでに身支度を整え、
控えの間で静かに待機していた。
黒地の着物。
きちんと結われた髪。
膝の上には慣れ親しんだ三味線。
廊下の向こうから足音が聞こえる。
お座敷を終えた姐さん芸者たちが
戻ってきたのだ。
「唯衣、大丈夫かい?」
疲れているだろうに、
姐さんたちはいつも真っ先に
唯衣へ声を掛けてくれる。
その優しさが嬉しかった。
「姐さんたち、お帰りなさいまし」
唯衣は丁寧に頭を下げる。
「ご苦労さまでございました」
「あい、ただいま戻りんした」
姐さんたちは笑顔で応えた。
「緊張してるかい?」
「少しだけ」
唯衣がそう答えると、
部屋に小さな笑いが広がった。
唯衣は姐さんたちにお茶を出した。
「真壁の若旦那は気前がいいよ」
「一週間しか経ってやしないのに、
またお見えだ」
姐さんたちは湯呑みを
手にしながら話している。
「あれだろ?」
「翡翠花魁がお気に入りなんだよ」
部屋に小さな笑いが広がった。
唯衣は黙ってお茶を注ぐ。
その横顔を見ながら、
姐さんたちは顔を見合わせて、
にぎやかに囃し立てている。
翡翠花魁。
きっとそうなのだろう。
あれほど美しい人だ。
若旦那が何度も足を運ぶのも
不思議ではない。
そう思いながらも。
唯衣の脳裏に浮かんだのは、
翡翠花魁ではなかった。
薄い青色の瞳。
どこまでも澄んだ空のような色。
不思議と心が落ち着く色だった。
今夜はまた、
その色を見ることができるのだろうか。
そう思うと。
ほんの少しだけ胸が弾んだ。
一方、真壁家では
「若、
本日も蒼月楼へお出かけでございますか」
景が静かに尋ねた。
景はレオの世話人だ。
レオよりも4つほどの上で
漆黒の髪を後ろに束ねている。
スラリと伸びた手足、
そして整った顔立ち。
レオに負けず劣らずの美男である。
「前のお遊びから
まだ七日も経っておりません」
レオは着替えながら短く答える。
「構わん」
「またあの芸者でございますか」
景の声に、わずかな呆れが混じった。
レオは眉一つ動かさない。
「音を聞きたいだけだ」
「音、でございますか」
景はため息をついた。
「それならば江戸中にも
腕の良い芸人はおりますが」
「違う」
レオは即座に否定する。
「あそこでなければ意味がない」
景は額を押さえた。
「そうでございますか」
「お前は来なくていい」
「それは困ります」
間髪入れず返される。
「若様のお供も私の務めでございます」
「今日は久方ぶりに
早く帰れると思っておりましたのに」
ぶつぶつと小言を続ける景を見ながら、
レオは羽織を手に取った。
「聞いておられますか、若様」
「聞いている」
「ならば結構です」
全く結構そうではなかった。




