花魁道中と、忍び寄る影 1
時刻は暮六つ。
浅草寺の鐘が響き渡るとともに、
今日も吉原の夜が華やかに色づき始める。
今宵は、 翡翠花魁の花魁道中。
幾重にも重ねた絢爛豪華な打掛をまとい、
髪には幾本もの鼈甲の簪がきらめく。
しゃらり。
一歩進むたび、
簪が美しい音を奏でた。
そして今宵、
夜風に乗って漂う香りは、
いつもの翡翠が纏う香とは少し違っていた。
「あら、花魁……今日はとてもいい香り」
「聞いたかい?
真壁の若旦那様が長崎から取り寄せた香らしいよ」
「まあ、羨ましいこと」
「今日はいつも以上に綺麗じゃないか」
見物客たちが、 口々に噂を交わす。
その声を聞きながら、
翡翠は口元だけで小さく微笑んだ。
今日の昼。
束の間の昼寝へ向かおうとした翡翠を、
唯衣が小走りで追いかけてきた。
「翡翠姐さん」
そう呼び止めると、
両手で大切そうに小さな匂い袋を差し出す。
「最近、お座敷続きで お疲れでしょう?」
「お花の香りには、
気持ちを落ち着かせる力があるそうです」
「よろしければ、
お昼寝の時に枕元へ置いてくださいまし」
照れくさそうに微笑む唯衣を見て、
翡翠は思わず目を細めた。
「……ありがとうよ」
その小さな匂い袋は、
優しい花の香りに包まれていた。
おかげで翡翠は、
久しぶりに
夕方までぐっすりと眠ることができた。
だから今夜は、
身体も軽く、 顔色も驚くほど良い。
「……まったく」
誰にも聞こえぬよう、
翡翠はくすりと笑う。
「ほんに、優しい娘でありんす」
そう呟く横顔は、
いつもの艶やかな花魁ではなく、
妹を見守る姉のように穏やかだった。
迎え先にいたのは、
真壁の若旦那、真壁レオだった。
白銀の髪に、 澄み渡る空色の瞳。
その端正な姿は、
華やかな吉原の灯りの中でも
ひときわ目を引く。
花魁道中を終えた翡翠と並び、
蒼月楼の奥へと歩いていく二人。
「真壁の若旦那様だ」
「あの白銀のお方か」
「翡翠花魁と並ぶと、
まるで物語の一場面みたいだねぇ」
見物人たちは思わず足を止め、
その美しい後ろ姿を見送った。
後に、
その日の二人を描いた錦絵は、
版を重ねるほどの人気を博したという。
やがて二人は、
蒼月楼最奥の『蒼狼の間』へと姿を現した。
部屋では、
すでに宴の支度が整えられている。
三味線を抱えた唯衣が静かに頭を下げ、
景は先に座敷に座っている。
「若旦那様、お待ちしておりました」
翡翠はいつもの艶やかな笑みを浮かべながら
席へ誘い、そして自分も着く。
だが、
翡翠の瞳の奥には、
昨夜の座敷で感じた小さな違和感が、
まだ静かに残っていた。
今宵の宴は、
酒を酌み交わすためだけではない。
黒崎久遠。
その男について、
真壁の若旦那へ
伝えなければならないことがあった。




