化かし合いの夜、大座敷の対峙
女将・菊乃の防衛線に導かれ、
黒崎久遠と実成の親子は、
蒼月楼で最も絢爛豪華な
大座敷へと足を踏み入れた。
部屋の奥、
上座の金箔の屏風を背にして、
優雅に煙管をくゆらせて待っていたのは、
我らが最高級プロ
――翡翠花魁だった。
「これはこれは、黒崎の旦那様。
今夜はようこそおいでおくんなんし」
翡翠は鼈甲の髪飾りをしゃらりと鳴らし、
大人の余裕を湛えた極上の笑みで
久遠を迎えた。
隣で、
前回の難癖など忘れたかのように
ふんぞり返る実成を一瞥しながらも、
翡翠の美しい瞳は、
その父・久遠の"笑っていない目"だけを
静かに見据えていた。
「久しいね、翡翠花魁」
「先日は、うちの不肖の息子が
この美しい見世で無粋を働いたそうだね。
父親として、改めて詫びさせてもらうよ」
久遠は穏やかに微笑み、
懐からずっしりと重い金札の袋を
畳へ滑らせた。
形式だけを見れば、
これ以上ないほど見事な謝罪だった。
「まあ、旦那様」
「そんな野暮なお話は、
このお酒と一緒に流してしまいなんし」
「……さぁ。 今宵はわっちが、
とびきり粋なお酌をして差し上げんしょう」
翡翠は艶やかに笑いながら、
見事な盃へ酒を注ぐ。
トトト……
静かな音だけが、 座敷に響いた。
前回、
実成を芸者衆との見事な連携で
泥酔させた時と変わらぬ、
完璧な花魁の仕事。
だが、 久遠は盃へ一切口を付けなかった。
煙管の灰を火入れへ トントンと落とすと、
静かに口を開く。
「実はね、
先ほど女将には振られてしまったが」
「今日、私が聴きたいのは、
磨き上げられた音ではないんだよ」
その低い声だけで、
華やかな座敷の空気が、
一瞬にして凍りつく。
「……例えるなら。」
「まだ若い、
青々しい三味線の音色なんだが」
翡翠は一瞬だけ目を細めた。
だが、 笑顔は一分たりとも崩さない。
「おやおや、旦那様。」
「久しくお顔をお見せくださらなかった旦那様に、
若手をお付けするような野暮はいたしんせん」
そう言うと、 煙管の煙を細く吐き出した。
白い煙が、 久遠の前をゆっくりと流れていく。
「どうぞ今宵は、
蒼月楼自慢の花魁遊びを、
心ゆくまでお楽しみくださんし」
「おい!」
実成が乱暴に盃を畳へ置く。
「父上がお望みなんだ!」
「高い金を払ってるんだぞ!」
「若い芸者を呼べ!」
「三味線を弾かせろ!」
翡翠は実成を一瞥すると、
ふっと微笑んだ。
「若旦那様。」
「粋な遊びとは、
欲しいものを力ずくで手に入れることでは
ござりんせん」
「まずは、 遊び方を覚えてから
お越しくださんし」
「なにっ……!」
実成は悔しそうに歯を食いしばる。
しかし、 久遠はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに盃を持ち上げ、
初めて酒を一口だけ口へ含む。
その仕草だけが、
実成への無言の制止だった。
その後も翡翠は、
唄や舞、
酒と会話だけで座敷を巧みに繋ぎ、
一刻の時を何事もなく終わらせた。
――厄介なお人でありんすね。
――どこで唯衣の音をお知りになったのやら。
座敷を辞する頃には、
翡翠の胸の内には
不吉な胸騒ぎだけが残っていた。
「花魁、 そろそろ次のお座敷でございます」
禿がそっと囁く。
「そうでありんしたか」
翡翠は静かに立ち上がり、 久遠へ一礼した。
「旦那様。 今宵はこれにて、おさらばえ」
そして、
ゆっくりと実成へ視線を移す。
鼈甲の簪が、 しゃらり、と涼しく鳴った。
「若旦那様。」
「もう少し粋を覚えてから、
お越しくださんし」
にっこりと、 満点の営業笑顔。
その一言が、 実成の理性を吹き飛ばした。
「なに?!」
「たかが遊女の分際で!」
「真壁に気に入られているからと、
楯突くのか!」
「花魁風情が!」
実成は顔を真っ赤にして立ち上がると、
手にしていた盃を 翡翠へ向けて振りかぶった。
その瞬間。
「実成」
静かな一声だった。
だが、 冬の湖のような冷たさが、
座敷中を一瞬で支配する。
実成の腕が、 ぴたりと止まった。
芸者たちも、
禿も、 誰一人息をすることさえ忘れている。
久遠はゆっくりと煙管を置き、
ようやく翡翠へ視線を向けた。
「……すまない、翡翠花魁」
それだけを告げると、
何事もなかったかのように 再び酒を口へ運ぶ。
「恐れ入りんした」
翡翠は静かに一礼し、
一度も振り返ることなく 座敷を後にした。
襖が閉まると同時に、
張り詰めていた息をそっと吐く。
……厄介なお人でありんす。
真壁の若旦那様へ、
このことはお耳に入れておいた方が
よろしゅうありんすね。




