目が笑わぬ蛇と、女将の防衛線 1
その約束の日の夜。
浅草寺の鐘が夜の街へ厳かに響き渡る頃、
夏の乾いた夜風とともに、
蒼月楼の敷居を跨ぐ足音があった。
「女将、先日ぶりだね」
黒崎久遠が、息子・実成を伴って姿を現した。
漆黒の髪を静かに揺らす久遠は、
隣で居心地悪そうに
ふんぞり返る実成とは対照的に、
終始、穏やかな笑みを浮かべている。
「先日は、
経験不足の愚息が大変な無礼を働いた。
大見世の格を汚してしまったこと、
父親として深く詫びよう」
そう言って、
久遠は丁寧に頭を下げた。
「とんでもござりんせん」
「 またのお越し、
まことにありがとうござりんす」
菊乃も笑みを崩さず、
静かに頭を垂れる。
だが。
目の前の男が紡ぐ柔らかな言葉とは裏腹に、
その双眸だけが
一度も笑っていないことに気付いた瞬間、
菊乃の背筋を、
ぞくりと冷たいものが駆け抜けた。
このお人……。
やっぱり、ただのお客様じゃない。
蛇のような目をしておいでだ。
「翡翠ですが、 お約束どおり、
一刻だけでよろしゅうござりんすか?」
「ああ、それで構わない。」
久遠は穏やかに頷く。
「花魁をそれだけ拘束できれば十分さ。」
「それでは、大座敷へご案内いたします」
菊乃が歩き出そうとした、
その時だった。
「ああ、そうだ。」
久遠は思い出したように足を止める。
「一つ、頼みがある。」
菊乃は静かに振り返った。
「ここに、 実成と同じくらいの歳で、
妙に腕の立つ若い芸者がいるそうだね。」
「今夜は、その娘も座敷へ付けてくれ。」
ドクン。
胸の奥で、 心臓が嫌な音を立てた。
「……さて。」
菊乃は小さく首を傾げる。
「どの娘のことでござりんしょう。」
「蒼月楼には芸者が大勢おりますゆえ、
旦那様のお探しのお人が誰なのか、
わっちには皆目見当もつきんせん。」
その完璧な受け流しを見て、
久遠は肩を揺らして笑った。
「ははは。」
「冗談は夢の中だけにしてくれ、菊乃。」
笑っている。
だが、 目だけは氷のように冷たい。
「姓は変わっているのかな。」
「私の記憶では、 『白石』という名だったと思うがね。」
その一言で。
菊乃の袖の内で、 握り締めた手が震えた。
白石。
唯衣の、本当の姓。
だが、
その震えを誰にも悟らせることなく、
菊乃は静かに視線を上げた。
「……旦那様。」
声音だけが、 すっと冷える。
「ここは吉原でござりんす。」
「女の過去を詮索することは、 何より野暮。」
「それは、この廓では 決して破ってはならぬ『ご法度』でござりんす。」
一歩も退かない。
女将としての矜持が、 その言葉に宿る。
「わっちらは、 芸者や花魁の過去を探ることはいたしんせん。」
「ゆえに、 旦那様がお探しのお人が誰なのかも、 知る由はござりんせん。」
一拍置き、 にこりと微笑む。
「今宵のお座敷には、
蒼月楼自慢の芸者たちを揃えております。」
「どうぞ、 その音と舞を、
心ゆくまでお楽しみくださんし。」
菊乃は笑顔のまま一礼し、
黒崎親子を大座敷へと案内した。
その背中を見送りながらも、
胸の鼓動だけは収まらない。
漆黒の蛇は、
もう唯衣の匂いを嗅ぎつけている。
その牙は、
気付かぬうちに、 すぐ足元まで迫っていた。




