目が笑わぬ蛇と、女将の防衛線 0
実成の泥酔騒動から、
しばらく経ったある日のことだった。
蒼月楼の帳場へ、
一枚の予約状が静かに届けられる。
宛名は、 黒崎家当主・黒崎久遠。
しかもその予約は、
正式な手順を踏み、
何の落ち度もない形で入れられていた。
だが、菊乃は眉をひそめる。
その夜の翡翠花魁は、
もともと別の上客の予約で
埋まっていたはずだった。
ところが帳簿には、
その名が消え、
代わりに『黒崎久遠』と
書き改められていたのである。
不審に思った菊乃は、
すぐさま相手の上客へ確認を入れた。
すると、
思いもよらぬ事情が明らかになる。
「……先日の愚息の不始末を、
見世の皆様へ直接お詫びしたいと、
黒崎様がおっしゃいましてね。」
上客は困ったように苦笑した。
「翡翠花魁は人気ゆえ、
そう簡単には予約が取れない。
一刻も早く謝罪を済ませたいから、
どうか今夜の席を譲ってほしいと。」
そう言って久遠は、
十分すぎるほどの礼金を添え、
深々と頭を下げたという。
金と権力を
振りかざすこともできたはずの男が、
礼を尽くし、
正式な手続きを踏んで席を譲り受けた。
だからこそ、
誰も断ることができなかった。
力任せに暴れた実成とは違う。
父・久遠は、 静かで、 合理的で、
そして逃げ道を残さない。
「……正式なお客様を、
見世の都合だけでお断りすることはできんせん。」
帳簿を閉じながら、
菊乃は静かに呟いた。
前回のような難癖ではない。
非を認め、 礼を尽くし、
正規の手順で訪れる客を、
大見世が拒む理由はどこにもなかった。
こうして。
黒崎久遠と実成。
因縁の親子を迎える夜の幕が、
静かに上がろうとしていた。
「前回のお詫び」
その綺麗すぎる名目の裏側に、
得体の知れない何かが潜んでいる。
そんな胸騒ぎを振り払えないまま、
菊乃は今宵も、
蒼月楼の女将として笑顔を整える。
そして誰にも気付かれぬよう、
大切な一人を守るための防衛線を、
静かに張り巡らせるのだった。




