二十四時間の飢えと、巡り出す血(余韻編)2
「若」
「お楽しみのところ、本当に、
本当に申し訳ありませんが……」
二人が畳の上にゴロンと横になり、
お互いの体温をぎゅっと確かめ合っていた、
その極上の静寂を切り裂くように。
襖の向こうから、
これ以上ないほど冷ややかで、
けれど完璧に調和された景の
「ビジネスの声」が響き渡った。
「夜五つ(20時)のお座敷の前に、
長崎の商人との大事な諸付が
まだ半分残っております。
若旦那がそうやって新米芸者さんの前で
骨抜きになって息絶えている間にも、
真壁家の金蔵の書類は山積みなんですよ」
「……景、黙れ」
「お前は間が悪すぎる」
レオは腕で顔を隠したまま、
地を這うような低い声で吐き捨てた。
いつもなら冷徹な氷の刃のような若旦那が、
耳の付け根まで真っ赤に染めたまま、
唯衣の小さな手を
絶対に離さないとばかりに
ぎゅっと握りしめている。
唯衣は恥ずかしさのあまり
顔から火が出そうになり、
慌ててレオの肩から頭を離すと、
着物の襟元を片手で必死に押さえた。
髪に挿したあの『びいどろの簪』が、
カチリ、と切なく鳴り響く。
「 景さま、ご、ご免なさいまし!」
「 わたし、すぐにお稽古へ戻ります……っ」
「いえ、唯衣さんは何も悪くありませんよ」
「悪いのは、二十四時間会えないだけで
理性をどこかへ放り出してきた、
我が真壁家の不器用すぎる若旦那です」
すっと襖が開くと、
そこには案の定、
大福帳を抱えて
完全に目が据わっている景が立っていた。
景はやれやれと額を押さえ、
天井を見上げて深くため息をつく。
「さぁ、若」
「唯衣さんに『仕事もできない無粋な男』
だと思われたくなければ、
今すぐ立ち上がって本宅へ戻り、
書類に判を押してください。仕事です」
「……チッ」
レオはあからさまに
不機嫌な舌打ちを漏らすと、
名残惜しそうに唯衣の手を離し、
ゆっくりと身を起こした。
その薄い青色の瞳には、
まだ唯衣を
自分の腕の中に閉じ込めておきたいという、
狂おしいほどの飢えと未練が、
ありありと滲んでいる。
「……夜五つに、
いつもの大座敷で待っている」
「翡翠の目が盗める一瞬、必ずお前を見つける」
レオは立ち上がり、
狼の刺繍が施されたシックな羽織の裾を
バサリと捌いた。
その背中は相変わらず端整で格好いいのに、
唯衣への「重すぎる愛」のせいで、
どこかバツが悪そうに強張っている。
「はい。……お待ちしております」
「若旦那様」
唯衣は真っ赤になった顔を隠すように、
三つ指を立てて畳に深く頭を垂れた。
ほどけた髪の隙間から覗く白い首筋が、
恥ずかしさで林檎のように赤く火照っている。
パタン、
と静かに襖が閉まり、
あの愛おしい伽羅の香りと、
白銀の髪の人の足音が遠ざかっていく。
廊下に出た瞬間、
景が意地悪くくすくすと言葉を和らげた。
「若」
「顔に『もっと口吸い(キス)がしたかった』と書いてありますよ。
本当に分かりやすい御方だ」
「うるさい、景」
「黙れと言っているだろう」
残された夕暮れのお稽古部屋。
唯衣はそっと自分の唇に手を触れ、
そこに残る本物の熱と、
レオの「お前がいないと息ができない」
という掠れた声を思い出し、
一人きりで何度も何度も胸を熱くさせていた。
黒崎家の漆黒の影が、
すぐ近くまで忍び寄っている、
その嵐の前の箱庭で。
二十四時間の飢えを経て、
より激しく、
より深く結びついた二人の純愛は、
夜の嘘のお座敷へと向かって、
確かな『千夜の契り』の絆を強く、
甘く、
育んでいくのだった。




