血の巡らぬ一日と、廊下に響く清水の音
二十四時間、
互いに逢えない二人の時間は、
それぞれの場所で狂おしく、
そして静かに流れていた。
真壁の本宅では、
レオの時間が完全に死んでいた。
「……若、長崎からの荷の件ですが」
景がいくら書類を差し出しても、
レオは机に向かったまま、
薄い青色の瞳の焦点をどこにも合わせずに
虚空を見つめている。
いつもなら江戸中を動かすキレキレの指示を
出すはずの天才の脳内が、
完全にフリーズしていた。
唯衣がいない。
あの清らかな音が聴けない。
ただそれだけのことで、
自分の身体の血が全く巡っていかないのを、
レオは激しい苛立ちと共に自覚していた。
懐に隠した唯衣からの返歌の和紙だけが、
今のレオの理性をギリギリで繋ぎ止めている。
一方その頃、
吉原の蒼月楼。
唯衣は、いつもなら賑やかなはずの
『蒼狼の間』の静寂の中で、
一人きりでお留守番をしていた。
「唯衣、
今日は絶対にここから出てくるんじゃないよ」
女将の菊乃、
お姉様芸者たち、
そして何より、
今まさに黒崎実成を
バサバサとあしらっている翡翠花魁から、
きつく、
厳重に部屋に閉じこもるよう
言い渡されていたのだ。
あの漆黒の悪意から、
大人の総がかりで守られている箱庭。
他のお客様の前に出ることも許されず、
一人取り残された唯衣は、
寂しさを紛らわせるように
机に置かれたレオの手紙を見つめた。
若旦那様……
いま、何をしておいでですか……
逢いたい。
あのお方の大きな手の温もりが、
吸い込まれそうな薄い青色の瞳が、
恋しくてたまらない。
唯衣は溢れそうになる想いを
すべて撥に込め、
静まり返った部屋で、
ひたすら三味線を弾き続けた。
レオの面影だけを追いかけて、
一音一音、
清水のように透き通った音色を響かせる。
ベン……、
ベベン……。
その時だった。
夕暮れ時、
蒼月楼の廊下に、
複数の足音が重々しく響いた。
お座敷の奥で、
お酒をガバガバと飲まされて
泥のように寝落ちした、
無粋な息子・実成。
それを取りに引き取りにやってきた男がいた。
黒崎家当主、黒崎 久遠。
漆黒の髪に白髪が混じる長髪の男は、
背筋を凍らせるような
「静かな狂気」を纏い、
大見世の廊下を静かに歩いていた。
その耳に、不意に、
襖の向こうから漏れ聞こえる
美しい三味線の音が届く。
「……ん?」
久遠の歩みが、ピタリと止まった。
笑っていない鋭く細い目が、
唯衣の籠もる『蒼狼の間』の襖へと
向けられる。
吉原の喧騒とは一線を画す、
あまりにも清らかで、
あまりにも一途な一滴の清水の音。
久遠の脳裏に、
かつて手に入れようとして逃した、
気高い旗本のお嬢様
――あの女が奏でていた、
あの忌まわしくも美しい三味線の記憶が、
鮮烈に蘇った。
「当主様、どうされましたか?」
供の者が不審そうに尋ねるが、
久遠は背筋を凍らせるような静かな声で、
ただ一言呟いた。
「……いや。
懐かしい音が聞こえたと思ってな」
久遠は不気味に目を細めると、
音の主の姿を見ることはないまま、
泥酔した実成を引き連れて、
静かに蒼月楼を去っていった。
唯衣は、
ただひたすらに
レオを想って三味線を弾き続け、
江戸の真壁家では、
レオが狂おしい飢えを瞳に宿らせていた。




