広がるウワサと、漆黒の影 2
それから、
しばらく経ったある朝のことだった。
「若!」
「若!!」
夜明けの静寂を切り裂くように、
景の声が屋敷へ響く。
返事を待つことなく襖が開き、
景が足早に部屋へ入ってきた。
「お目覚めですか?」
その表情は、
普段の冷静さをわずかに失っていた。
「蒼月楼から、今しがた早飛脚で知らせです」
「……何があった」
寝間着姿のまま身を起こしたレオが、
低い声で問う。
景は一枚の文を差し出した。
「本日、昼の開店と同時に、
翡翠花魁が一日押さえられました」
レオの薄い青い瞳が、すっと細くなる。
「誰だ」
「黒崎家のご子息、実成様にございます」
「どうやら昨夜のお座敷で、
誰も手を付けられないほどの難癖をつけ、
見世で大暴れしたようで……」
「チッ……」
レオは小さく舌打ちした。
翡翠花魁を一日押さえられてしまえば、
表向き翡翠に会いに来ているレオが、
唯衣と逢瀬を重ねることはできない。
「……もともと押さえられていたのでは
なかったのか」
低い声で景へ問いかける。
「もちろん、女将が
可能な限り押さえてくださっておりました」
「ですが今回は……
どうにも致し方ない事情があったようです」
景は蒼月楼から届いた書状を差し出した。
そこには女将らしい達筆な文字で、
こう綴られていた。
『昨夜のお座敷にて、
黒崎家の若旦那様に
少々ご機嫌を損ねる出来事がございまして。
その埋め合わせとして、
本日は翡翠を一日お付けする運びとなりました。
まことに不本意ながら、
ご容赦いただきたく存じます。』
さらに続けて、
『唯衣は、
できる限りお座敷へ上げぬよう手配いたします。
必ず芸達者な古参芸者を付けますので、
どうかご安心くださいませ。』
最後には、
女将らしい一文が添えられていた。
『まったく、
困ったお客様を抱えたものでございます。』
一見すると丁重な詫び状。
しかし長年付き合いのある景には、
その文面から
滲み出る女将の嫌味と憤りが痛いほど伝わってきた。
「……嫌味、
百二十パーセントでございますね」
景が苦笑すると、
レオは書状を静かに畳んだ。
その薄い青色の瞳には、
冷たい光が宿り始めていた。
「景」
「紙と筆を」
レオは短くそう告げると、
静かに机へ向かった。
「かしこまりました」
景はすぐさま上質な和紙と筆、
それに硯を用意する。
墨を磨る音だけが、
静かな部屋に響いた。
レオは筆を執る。
まず一通目は、蒼月楼の女将へ。
『事情、承知した。
女将の采配に異論はない。
唯衣を守ってくれたこと、感謝する。
改めて埋め合わせは私がする。
どうか気に病まないでほしい。』
短いながらも、
相手を気遣う真壁家らしい文だった。
続いて、二通目。
レオの筆先が、
ほんのわずかに柔らかくなる。
宛名はただ一つ。
『唯衣へ』
景は黙って硯へ墨を足した。
サラ、サラと、上質な和紙の上を、
若旦那の迷いのない美しい筆跡が滑っていく。
レオがその溢れる想いを託したのは、
かつて平安の世で詠まれた、
一首の恋歌(和歌)だった。
『逢ひ見ての 後の心に くらぶれば
昔は物を 思はざりけり』
……こうして心を通わせた今となっては、
逢う前に恋い焦がれていた日々でさえ、
恋とは呼べぬほど浅いものだった
ただ一日。
されど、一日。
唯衣と逢えない時間が、
これほどまでに長く、
狂おしいものに感じるとは思わなかった。
「……若」
「若の唯衣さんへの執着が、
一文字ごとに重たく漏れ出ておりますよ」
「本当のことだ」
レオは澄ました顔のまま、
けれどその薄い青色の瞳に
激しい飢えを宿らせて、筆を置いた。
「景」
「すぐにこれを蒼月楼へ。
誰の手にも渡さず、
唯衣本人へ直接届けさせろ」
「はい、かしこまりました」
景は二通の文を大切に文箱へ納めると、
すぐに真壁家の息のかかった早飛脚を使い、
蒼月楼へと届けさせた。




