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真壁レオは今日も重い〜吉原外伝〜  作者: ほしよみ


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広がるウワサと、漆黒の影1

「聞いたかい?」

「真壁大店の若旦那が、

また蒼月楼へ来てるんだってさ」

「それも、翡翠花魁の昼の空き時間まで、

家が一軒建つほどの金で押さえてるらしいよ」

「もう身請けも間近じゃないかねぇ」


初夏の陽射しが江戸の町を照らす頃。

そんな噂は、

吉原の大門をくぐる旅人の口から口へ、

茶屋の女中たちの井戸端へ、

そして日本橋の商家へと、

まるで風に乗る綿毛のように広がっていった。


「いやぁ、真壁の若旦那も、

とうとう女に夢中になったか」

「相手が翡翠花魁じゃあ、無理もない」

誰もがそう信じて疑わない。

だが、その噂は半分だけ正しく、

半分は大きな勘違いだった。

若旦那が本当に逢いたいと願っているのは、

花魁ではない。

そのすぐ後ろで三味線を奏でる、

新米芸者、唯衣。

そのことを知る者は、

蒼月楼の奥座敷『蒼狼の間』に出入りを許された、

ごくわずかな者だけだった。

真実を覆い隠したまま、

噂だけが独り歩きしていく。

そして、その噂は、

やがて真壁家を快く思わぬ者たちの耳にも

届くことになる。


そんな吉原中の噂など、お構いなしに。

蒼月楼の奥座敷『蒼狼の間』では、

今日も二人の穏やかな時間が流れていた。

表向きは、

真壁家の若旦那が翡翠花魁を

贔屓にしていることになっている。

そのため翡翠は、

忙しい一日の合間を縫って

半刻ほど部屋へ顔を出すと、

軽く世間話を交わし、

頃合いを見て静かに席を外す。

その後に残るのは、レオと唯衣だけ。

翡翠にとっても、

この時間は悪い話ではなかった。

若旦那が莫大な金で買い上げてくれるおかげで、

慌ただしいお座敷から束の間解放され、

ゆっくりと息をつくことができる。


「いやぁ、今日は昼寝でもしようかねぇ。」


なんて冗談を口にしながら、

煙管を片手に部屋を後にする

翡翠の背中を見送った。

その後は、景も部屋の隅へ控え、

大福帳へ静かに目を落とす。

誰にも邪魔されることなく、

レオと唯衣だけの穏やかな時間が

流れ始めるのだった。


「翡翠が行ったぞ。」

「さあ、約束の膝の上へ来い。」


レオがいつものように両腕を広げる。


「……はい。」


唯衣は頬をほんのり染めながら、

小さく返事をして、

その逞しい膝の上へそっと腰を下ろした。


「唯衣。」


優しく名を呼ぶと同時に、

レオは今日一度目の口づけをそっと重ねる。

もう毎日のこと。

以前ほど驚いて固まることはなくなったものの、

唇が離れるたび、

唯衣の胸は相変わらず高鳴っていた。


「……まだ慣れないか?」


少しだけ不満そうに問いかけるレオ。


「若旦那様、もう……。」


唯衣は真っ赤になりながら

レオの胸へ顔を埋めた。


「毎回、

胸が飛び出してしまいそうなくらい

ドキドキするのです。」

「こんなに綺麗なお顔が、

こんな近くにあって……

平気でいらっしゃる方なんて、おりません。」


その言葉に、

レオは少しだけ目を丸くする。


「自分の顔など、気にしたことはない。」


そう呟くと、

照れ隠しのように小さく笑った。


「……だが」

「お前が気に入ってくれているのなら。」

「父上と母上には、感謝しなければならんな。」


「若旦那様。」


レオの膝の上へちょこんと腰掛けた唯衣は、

くるりと振り返って微笑んだ。


「今日は、投扇興にいたしましょう。」

「投扇興?」

「あら、ご存じありませんか?」

「芸者や花魁がお座敷で

よく遊ぶ遊戯でございます。」


そう言いながら、

唯衣は小さな蝶形の的と扇を用意する。


「勝った方は、負けた方へお願いを一つ。」

「……いかがでしょう?」


期待に満ちた瞳で見上げられ、

レオは静かに頷いた。


「いいだろう。」

「だが、唯衣。」

「何でしょう?」

「お願いは、何でも聞く。」


その真剣すぎる返事に、

唯衣は思わず吹き出した。


「若旦那様、

そんなに身構えなくても大丈夫です。」

「難しいお願いはいたしませんから。」

「……そうか。」


レオはどこか安心したように

息をつきながらも、

その薄い青色の瞳だけは、

勝負を前にした武人のように

真剣そのものだった。

部屋の隅では、

帳面をめくっていた景が小さく肩をすくめる。


若……。

どうか勝負ごとまで本気を出されませんよう。


「では、始めましょう。」


唯衣はレオの膝の上からそっと降りると、

畳の上へ小さな台を置いた。

その上には蝶を模した的。

手には一本の美しい扇。


「これが投扇興でございます。」

「扇を投げ、この蝶を落としたり、

美しい形を作ったりして

点を競う遊びなのですよ。」

「なるほど。」


レオは興味深そうに扇を受け取った。


「若旦那様からどうぞ。」

「いや。」

「唯衣が先だ。」

「では……失礼いたします。」


唯衣は扇を胸の前で軽く構え、

すっと息を整える。

ふわり。

優雅に舞った扇は、

蝶のすぐ脇へ落ち、美しい形を描いた。


「お見事!」


景が思わず拍手を送る。


「芸者のたしなみでございますから。」


照れ笑いを浮かべる唯衣に、

レオの視線はますます優しく細められた。


「次は俺だ。」


レオは真剣な表情で扇を持つ。

まるで商談に臨むかのような顔つきに、

唯衣はくすりと笑った。


「そんなに力まれなくても……。」

「勝負だからな。」


そう言って放たれた扇は。

ころん。

蝶どころか、

畳の上を情けなく転がって止まった。


一瞬の静寂。


「……。」

「……。」

「若旦那様。」


唯衣は肩を震わせながら口元を押さえる。


「ふふっ……。」

「申し訳ございません……。」

「ふふふっ。」


とうとう堪えきれず、

鈴を転がすような笑い声が

部屋いっぱいに広がった。

その笑顔を見つめるレオも、

つられて口元を緩める。


「俺の負けだ。」

「約束通り。」

「お願いを一つ聞こう。」


唯衣は少し考え、小さく首を傾げた。 


「それでは……。」

「今日はあと半刻だけ。」

「わたしを、

そのお膝の上へ座らせてください。」

「そんなお願いでいいのか。」

「はい。」

「若旦那様のお膝の上は、

世界で一番安心できる場所ですから。」


その言葉を聞いた瞬間。

レオは耳まで真っ赤になりながら、

小さく咳払いをした。


「……ならば。」

「半刻と言わず、

日が暮れるまで座っていてくれて構わない。」

「若旦那様!」


再び部屋に笑い声が響く。

その微笑ましい光景を眺めながら、

景は静かに湯呑みを口へ運んだ。


「投扇興で負けたはずの若が、

一番幸せそうでございますね。」


蒼狼の間には、

三人の穏やかな笑い声が、

いつまでも優しく響いていた。

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