濁った世界に落ちた、一滴の清水2
ベン……
ベン……
再び三味線が鳴る。
レオの視線は自然と音の方へ向いた。
黒地の着物。
伏せられた睫毛。
真剣な横顔。
ただ一心に音を奏でている。
客たちの歓声も。
花魁の華やかさも。
あの芸者には
耳に入っていないようだった。
その姿だけが、この座敷の中で異質だった。
濁った世界の中に落ちた、
一滴の清水のように。
「若旦那」
「楽しんでくれたらうれしゅうござりんす」
いつの間にか翡翠が微笑んでいた。
不思議な女だった。
気付けば会話の流れを握られている。
触れられた手も。
注がれる酒も。
嫌悪を覚えるはずなのに、そう思わせない。
流れるような言葉。
絶妙な間。
ふとした仕草。
どれも計算され尽くしている。
その一挙手一投足に、
幾人もの男を破滅させてきた
吉原の歴史が張り付いているかのように重い。金糸銀糸で刺繍された極彩色の打掛が、
彼女がわずかに動くたびに擦れ合い、
衣擦れの音を小さく立てる。
部屋に満ちているのは、
濃厚な白檀の香りと、
甘い酒の匂いだ。
その香気すらも、
その香気が、
男の思考をじわじわと麻痺させていく。
これが蒼月楼一の花魁。
ひいては、
この吉原の頂点に立つ女なのだろう。
「翡翠、楽しんでいる」
レオは盃を傾けながら答えた。
翡翠は嬉しそうに目を細める。
「それはようござりんした」
白い指が酒を注ぐ。
波打つ漆黒の髪を飾る、
何本もの豪奢な鼈甲の髪飾りが、
部屋の灯火を反射して怪しくきらめいた。
彼女の視線は、
レオの心の奥底を
見透かそうとするかのように鋭く、
同時に蕩けるように甘い。
「次はいつおいでくださんす」
甘く囁く声。
客を夢へ誘う声だった。
レオは小さく息を吐く。
「ここでの約束など、ただの夢だろう」
「それでも」
翡翠は少しだけ身を寄せた。
「わっちは夢でも聞きたいのでありんす」
白粉の香りが一段と強く鼻腔をくすぐる。
彼女の長い睫毛が、
レオのすぐ近くで静かに揺れていた。
嘘を真実に変え、
真実を嘘に変える。
それがこの女の生業だ。
その声は、二人だけに届くほど小さい。
レオは苦笑した。
「また近いうちに」
それを聞いた翡翠が、
花のように微笑む。
「夢でも嬉しゅうありんす」
まるで本当に喜んでいるような顔だった。
その笑顔すら技なのか。
それとも本心なのか。
レオには分からない。
「ああ」
短く答え、盃を飲み干した。
その時だった。
「若旦那様、そろそろお時間でございます」
若い者が静かに声をかける。
もうそんな時間か。
レオは立ち上がった。
客たちも腰を上げる。
芸者たちが一斉に頭を下げる。
その中に。
黒地の着物をまとった小柄な芸者がいた。
三味線を抱え、静かに頭を垂れている。
名前も知らない。
ただ。
あの音だけが耳に残っていた。
澄んだ音色。
濁った心を洗い流すような音。
レオは目を離さないまま口を開く。
「あの芸者の名は何という」
翡翠の笑みが、一瞬だけ深くなった。
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