濁った世界に落ちた、一滴の清水1
真壁レオは今日も重い〜吉原外伝〜
開幕です。
どうぞ二人のデレデレお楽しみくださいませ。
午後六時。
浅草寺の暮六つの鐘が鳴り響いた。
ゴォォォン……
重い余韻が空へ溶けていく。
それを待っていたかのように、
リン、リン、リン……
仲之町の引手茶屋から
真鍮の鈴の音が一斉に鳴り始めた。
「さあ、お見立てくだせぇ!」
「今宵のお職は機嫌がいいよ!」
男衆たちの威勢のいい声が飛び交う。
昼間は静かだった通りが、
一瞬で熱を帯びる。
格子の向こうには色鮮やかな遊女たち。
客たちは足を止め、
品定めを始める。
そして。
カラン、コロン……
カラン、コロン……
人々のざわめきを裂くように、
重い下駄の音が響いた。
花魁道中。
黒漆塗りの三枚歯の高下駄。
八文字を描く艶やかな足運び。
提灯の灯りを受けた豪華な打掛が、
夜の街をゆっくりと進んでいく。
その瞬間。
吉原という巨大な舞台の幕が上がった。
そして
ここは吉原一の大見世『蒼月楼』。
唯衣は
この蒼月楼に所属する芸者だ。
三味線を奏で、
舞を舞い、
宴席に華を添える。
遊女たちの綺羅びやかさを引き立てるのも、
芸者の大切な役目だった。
今夜。
唯衣は初めて客前に出る。
初座敷の日である。
障子の向こうからは、
暮六つの鐘と真鍮の鈴の音。
そして男衆たちの威勢のいい呼び込みの声が聞こえてきた。
吉原の夜が始まろうとしていた。
「今日、翡翠花魁が座敷につくって聞いたよ」
「えー! すごい! 太客だ」
「真壁大店の若旦那だったかなぁ?」
「あっ! ウワサの!?」
待合の間で
芸者の姐さんたちが楽しそうに声を弾ませる。
その会話を聞きながら、
唯衣は膝の上でそっと指を握りしめた。
三味線の稽古は何度もした。
舞も覚えた。
それでも胸の鼓動だけはどうにもならない。
今夜は初座敷。
失敗は許されない。
「ふぅ……」
唯衣は小さく息を吐き、
大きく深呼吸した。
「さぁ、そろそろだ」
遣手である女将の菊乃が、
控室の間にいた
唯衣たちに声をかけた。
三味線を手に座敷まで移動を始める。
「あまり緊張しなくていいよ。
姐さんたちに任せておけばいいんだ」
菊乃が唯衣の肩を叩き優しく微笑んだ。
「はい」
唯衣も優しく微笑んだ。
長い廊下の先の部屋。
障子を開け、
唯衣は座敷へ足を踏み入れた。
眩しいほどの灯り。
漂う香の匂い。
賑やかな笑い声。
胸がどくんと大きく鳴る。
教えられた位置へ静かに腰を下ろすと、
隣の姐さんが小さく囁いた。
「唯衣、にっこりだよ」
「大丈夫。あたしたちがついてる」
姐さんたちは
唯衣の緊張をほぐすように
優しく声をかけてくれる。
「失敗しても、そのまま続けな」
「任せて。音は合わせてあげる」
唯衣は小さく頷いた。
震えていた指先が、
少しだけ落ち着く。
座敷には十名ほどの客がいた。
商家の旦那衆だろうか。
皆、
豪華な料理や酒を前に楽しそうに
談笑している。
その中に一人だけ。
場違いなほど静かな男がいた。
白銀の髪。
涼やかな水色の瞳。
年の頃は二十代前半だろうか。
客たちの中心に座っているにも関わらず、
不思議と周囲の喧騒から切り離されて見える。
(あの方が……)
先ほど姐さんたちが噂していた。
真壁財閥の若旦那。
だが唯衣は慌てて視線を下げた。
今はそんなことを気にしている場合ではない。
初座敷なのだ。
失敗だけはできない。
「では、お披露目と参りましょう」
座敷を取り仕切る芸者の声が響いた。
唯衣は三味線を構える。
震えそうになる指先を押さえ込み、
静かに息を吸った。
そして。
最初の一音を奏でた。
♪
その瞬間だった。
取引先との会話を聞き流していたレオが、
ふと顔を上げる。
澄んだ音色。
決して派手ではない。
だが、不思議と耳に残る音だった。
音の先を辿る。
そこにいたのは
黒地の着物をまとった小柄な芸者。
真剣な表情で三味線を奏でている。
(……誰だ)
知らず知らずのうちに、
その姿を目で追っていた。
あいつの音は不思議だ。
耳障りなほど騒がしかった座敷が、
少しずつ遠ざかっていく。
笑い声も。
酒の匂いも。
取引先の世辞も。
全部。
どうでもよくなっていく。
目を閉じる。
聞こえるのは三味線の音だけだった。
澄んだ音色。
濁った水が少しずつ透き通っていくような感覚。
胸の奥に沈殿していた
重たい何かが静かに流されていく。
ああ。
心地いい。
ずっと聞いていたい。
そう思った瞬間
座敷の空気が変わった。
誰かが歓声を上げる。
客たちの視線が一斉に入口へ向く。
翡翠花魁のおなりだった。
豪華な打掛。
揺れる簪。
灯りを受けて輝く珊瑚や鼈甲。
誰もが息を呑む美しさだった。
座敷中の視線が一斉に彼女へ向けられる。
翡翠は慣れた所作で客たちへ微笑みかけると、ゆっくりと座敷の中央へ進んだ。
まるで舞台の主役のようだった。
だが
レオは目を開かなかった。
相変わらず耳を満たしているのは
三味線の音だけだ。
一方の唯衣は必死だった。
翡翠花魁が入ってきたことには気付いている。
座敷の空気が一変したのだから分からないはずがない。
けれど。
顔を上げる余裕はなかった。
今の自分にできることは一つだけ。
花魁が歩く道を音で彩ること。
失敗しないこと。
それだけだった。
「若旦那様」
「本日はお招きいただき、
誠に嬉しゅうございます」
艶やかな声が降ってくる。
ようやくレオは目を開いた。
翡翠花魁が目の前にいた。
誰もがその美貌に目を奪われる。
翡翠は客たちへ挨拶を終えると、
自然な流れでレオの隣へ腰を下ろした。
「さぁ、若旦那。もう一杯」
白い手が盃へ酒を注ぐ。
「今、このひととき」
「心をわっちに向けておくなんし」
レオは小さく眉を寄せた。
仕方なく視線を向ける。
確かに美しい。
誰もが振り返るほどに。
豪華な打掛。
艶やかな化粧。
磨き上げられた微笑み。
だが
その姿はどこか歪に見えた。
望まれるままに笑い。
求められるままに振る舞う。
まるで精巧に作られた人形だ。
そして
そんな花魁に、
ほんの少しだけ親近感を覚えてしまう。
傀儡、俺と同じじゃないか。




