白銀の影と、すれ違いの白檀 2
上から落ちてくる、白銀の髪の影。
「若旦那様……」
消え入るような声で
名前を呼ぶ唯衣の前に、
レオは静かに膝をついた。
その薄い青色の瞳には、
怒りなどひとかけらもない。
ただ、愛おしそうに唯衣を見つめている。
「唯衣の音が聞きに来たんだ」
「え……」
「おいで」
低く、
けれど拒むことを許さない優しい響き。
レオは唯衣の小さな手を引く代わりに、
その身体にそっと手を添え、
自分が先ほどまで座っていた
部屋の真ん中の席へと、
唯衣を優しく連れていった。
金地の屏風。
豪奢な特等席。
吉原で最も高価なその場所で、
レオは唯衣を自分のすぐ隣に座らせた。
白檀の香りはもうない。
代わりに、
唯衣がそっと流した焦りの涙の匂いが、
切なく鼻腔をくすぐった。
レオは自分の盃を手に取ると、
ぽつりと言葉を落とした。
「……翡翠にしかられた」
グイッ、
いつもは静かに傾ける酒を、
レオが一気に飲み干す。
その慌てたような仕草に、
唯衣は驚きながらも、
体に染み付いた芸者としての習性で
慌ててお銚子を傾けた。
トトト
琥珀色の酒が盃を満たしていく。
「あ……っ、ありがとうございます」
「いや、ありがとう」
お礼を言い合ってしまう、
二人の不器用な距離感。
レオは満たされた盃を見つめたまま、
いつも通り冷徹な仮面を被ろうとしながらも、
どこかバツが悪そうにそっと囁いた。
「……俺の視線が、熱すぎると言われた」
「――っ」
「お前を怯えさせて、
せっかくの綺麗な音を縮こまらせてしまった、
と。……すまなかった」
あの翡翠花魁との仲睦まじい囁き合いが、
自分を心配するためのものだった。
それを知った瞬間、
唯衣の胸の奥で、
砕け散ったはずのパニックが、
一気にとろけるような熱い幸福感へ
と塗り替えられていく。
「いえ……! 」
「わ、わたしの、わたしの経験不足で、
申しわけありません……」
唯衣は真っ赤になった顔を隠すように、
お銚子をぎゅっと強く握りしめて、
再び目を伏せた。
嬉しくて、
恥ずかしくて、
もうどうしていいか分からない。
でも、
隣にいる若旦那様の体温が、
今は何よりも愛おしかった。
お銚子を握りしめて目を伏せた唯衣を、
レオはただ静かに見つめていた。
「若旦那様、……申し訳ありません」
もう一度、
小さな声で謝る唯衣の前に、
レオは自らの手で盃を置いた。
「謝るな」
低い声が、優しく唯衣の鼓動を包み込む。
「俺は……」
「お前のその手を責めるために
来たわけじゃない」
「……お前の音が、聴きたいんだ」
お前の音が、聴きたい。
その真っ直ぐな言葉が、
唯衣の胸の奥にストンと落ちた。
恥ずかしさも、
不安も、
その一言ですべて消えていく。
この大店の若旦那様は、
ただ純粋に、
自分の音を求めてくれている。
……若旦那様のために、弾きたい。
新人の自分が、
贅沢な特等席に
座っていることへの恐れはもうなかった。
唯衣はお銚子を置くと、
深く一礼して、
もう一度三味線を抱え直した。
隣には、
白銀の髪の若旦那様。
その視線が自分に向けられている。
けれど、
今度の緊張は、
先ほどまでのパニックとは違っていた。
すっと背筋を伸ばし、
伏せられた睫毛の奥で、
唯衣はそっと息を吐く。
そして、
冷たくなっていた指先に全ての想いを込めて、
撥を振り下ろした。
ベン……。
座敷の空気が、一瞬で震えた。
今度の音は、浮いていなかった。
掠れてもいなかった。
まるで、
真夏の夜の闇にきらめく冷たい湧き水のような、
どこまでも澄んだ、
鋭い音色。
唯衣の指先が滑らかに動き出す。
一音、一音が、
夜風の吹き込む静かな座敷を、
綺麗な清水で満たしていくようだった。
レオは、盃を持ったまま動きを止めた。
薄い青色の瞳が、
唯衣の真剣な横顔に釘付けになる。
これだ。
この音だ。
歪んだ夢の世界で、
自分の凍りついた心を溶かしてくれる、
ただ一つの本物の光。
唯衣は、ただ一心に糸を弾いていた。
姐さんたちの邪魔にならないように、
客に媚びるためでもなく。
ただ、
隣にいるこの愛おしいお方に、
自分のすべての音を届けたい。
その一心だけで。




