唯衣、上擦く
真壁家からの
桁違いの書状を受け取った蒼月楼は、
文字通りひっくり返るような
大騒ぎになっていた。
「唯衣! 大変だよ、今すぐ仕度をしな!」
お稽古部屋でぽつりと三味線を
爪弾いていた唯衣の元へ、
姐さん芸者が息を切らせて
飛び込んできたのは、
夜五つの鐘が鳴る少し前のことだった。
「え……? 」
「でも、今夜は翡翠花魁の予約はいっぱいで、
若旦那様はお見えにならないと……」
「それがね、あの大店の若旦那、
翡翠花魁の次の座敷までのわずかな
隙間時間を、
家が建つほどの金で
丸ごと買い取っちまったのさ!
『一刻でもいい、あの芸者の音を響かせろ』
ってね」
「あんたを呼ぶためだけに、
そんな無茶苦茶な真似をするなんて……」
「さぁ、ぐずぐずしてんじゃないよ!」
「――っ!」
その瞬間、
唯衣の胸の奥で、
キュンと舞い上がるように、心が跳ねた。
頭が真っ白になり、
身体がふわっと宙に浮いてしまうような
錯覚に囚われる。
嘘の世界でも、
夢でもいいからもう一度会いたいと、
夕べ月を見上げながら願ったばかりだった。
まさか、あのお方が、
そんな恐ろしいほどの行動力で
会いに来てくれるなんて。
嬉しさと、
愛おしさで、
胸がはち切れそうだった。
だが……
いざ着替えを済ませ、
お座敷の襖の前に立ったとき、
唯衣は自分の大失態に気がついた。
……恥ずかしい。
どうしよう、顔が見られない……
夕べ、自分の気持ちを完璧に
「初恋」だと自覚してしまったのだ。
あのお方が自分の名前を呼んだ、
あの低い声。
近くで見た、
吸い込まれそうな薄い青色の瞳。
それを思い出すだけで、
着物の下まで一気に熱くなっていく。
「ご免なさいまし……」
禿の言葉と共に襖が開く。
部屋の真ん中には、
前回と変わらず、冷
徹な美しさを纏った
若旦那・レオが座っていた。
その横には、相変わらず
「やれやれ」
という顔をした景の姿もある。
レオの視線が、真っ直ぐに唯衣を捉えた。
唯衣は弾かれたように視線を床へと落とし、
真っ赤になった顔を隠すように
部屋の隅へと滑り込んだ。
心臓が、
耳の奥でうるさいほどに鐘を鳴らしている。
指先が冷たくなり、
小さく震えが止まらない。
翡翠花魁がレオの隣に座り、
「本当に贅沢でつれないお人でありんすねえ」
とくすくす笑いながらお酒を注ぐ。
けれど、
レオの意識が自分に向いているのが、
肌を通じて痛いほど伝わってきた。
「――唯衣。三味線を」
不意に、レオから声が掛かった。
唯衣はビクリと肩を揺らし、
一礼して撥を構える。
落ち着いて、わたし。
いつも通り、お稽古通りに……
何度も自分に言い聞かせ、
震える指で弦を押さえ、撥を振り下ろした。
ベン……。
座敷に響いたその音は、
自分でも驚くほど小さく、
掠れて、どこか頼りなく浮いてしまった。
いつもなら一瞬で静寂を作るはずの唯
衣の清水の音が、
緊張のせいで上手く繋がらない。
頭が真っ白になり、
指先が次の糸を見失いそうになる。
どうしよう……上手く弾けない……っ
恥ずかしさと焦りで、
唯衣の瞳にみるみるうちに涙が潤んでいく。
せっかく会いに来てくれた
あのお方の前で、
一番大切な音を、失敗してしまう――。
その切ない初恋のパニックを、
レオの薄い青色の瞳が、
じっと見つめていた。




