1本釣り 唯衣を釣り上げる
唯衣が自室で「初恋」の沼に
足を踏み入れた、
ちょうどその翌朝のこと。
真壁家の一室には、
朝から紙の束が激しく擦れ合う音が
響いていた。
「若。……正気ですか」
景は手にした『蒼月楼』からの返信の
書状を握りしめ、
眉間をこれ以上ないほど
深く揉みほぐしていた。
目の前の机には、
山のような大店の帳簿。
そしてその向こうでは、
当の若旦那・レオが、
いつも通り涼しい顔で
上等な茶を口に運んでいる。
「何がだ」
「何がだ、ではありません!」
「蒼月楼へ次のお遊びの申し込みを
されたようですが、
前回の座敷からまだ『二日』しか
経っておりません」
「中二日です!」
「もう一回いいますよ、中二日です!!」
「いくら我が真壁家が潤っているから
といって、この通い方は尋常ではありません!」
景の必死の訴えにも、
レオは眉一つ動かさない。
「構わん。金を払うのは俺だ」
「お金の問題だけではないのです!」
景は机をバンと叩き、
書状をレオの目の前に突きつけた。
「これをご覧なさい」
「蒼月楼からの断り状です」
「吉原の頂点に立つ翡翠花魁ですよ?」
「 お大名や他国の豪商たちが
何ヶ月も前から予約を競い合っているお方です。
いくら若が金を積もうと、
今夜は先客で完全に部屋が埋まっております!」
レオの茶をすする手が、
ピタリと止まった。
薄い青色の瞳が、すっと細められる。
「……部屋が、ない?」
「ありません」
「どれだけ財力を誇ろうと、
吉原の先約だけは覆せません。
それが、あの街の絶対の掟でございます」
景は、
これでようやく若も諦めて
大人しく仕事に戻るだろうと、
ホッと胸をなでおろした。
しかし
お金がある人の行動力と執着を、
景は甘く見すぎていた。
レオは静かに茶碗を置くと、
引き出しから白紙の書状を取り出し、
滑らかな手つきでサラサラと
数字を書き込み始めた。
「若、何をしておられるのです」
「蒼月楼の女将に文を送る」
レオは顔を上げず、淡々と告げた。
「翡翠が他の男の座敷に入っているなら、
その前後の『空き時間』をすべて俺が買い取る。
一刻(二時間)でも、半刻でも構わん。
翡翠が部屋を移動するわずかな隙間に、
俺の座敷をねじ込めと言え」
「は、はあ!?」
景は声を裏返した。
「隙間時間を買い取る!? 」
「他の客の合間に若旦那をねじ込むなど、
大見世のプライドが許すはずが――」
「これで足りねば、さらに倍積むと書き添えろ」
レオが差し出してきた書状に書かれた、
桁違いの金の額。
それを見た瞬間、
景の頭は完全に真っ白になった。
「若、本当に正気ですか……」
「至って正気だ」
「早く若い者を走らせろ」
レオの底知れない瞳には、
一切の迷いがなかった。
吉原がどれほど高い壁で遮ろうとも、
真壁家の財力をもってすれば、
その隙間をこじ開けることなど容易い。
ただ、
あの澄んだ一滴の清水のような音を、
もう一度手元に手繰り寄せるためだけに。
若旦那の、型破りで贅沢すぎる
「一本釣り」の戦いが、
今ここから始まろうとしていた。




