三味線を抱いても、胸の高鳴りは止まらない(唯衣)
座敷には、
さっきまでの賑わいが
嘘のような静けさが戻っていた。
姐さん芸者たちは
慣れた手つきで盃を片付け、
誰かが閉め忘れた窓から
夜風が細く吹き込む。
唯衣だけが、その場から動けなかった。
抱き締めた三味線には、
まだ自分の体温が残っている。
「若旦那様……」
小さく呟いてみる。
その五文字さえ恥ずかしくて、
慌てて唇を押さえた。
『また、お前の音を聞きに来る。
……それまで、そのままでいろ』
耳の奥で、
あの低い声が何度も、
何度も繰り返される。
「唯衣、手が止まってるよ」
不意に掛けられた声に、唯衣は我に返った。「あ……! 申し訳ありません」
姐さん芸者に言われ、
唯衣は慌ててお銚子を盆に乗せた。
顔がすぐに火照ってしまう。
自室に戻り、ようやく一人になったとき、
唯衣はどっと畳に倒れ込んだ。
胸が、苦しい。
締め付けられるように、
痛い。
……どうして、わたしの名前を
名乗ってもいない名前を、
あの若旦那様が呼んでくれた。
それは、吉原の頂点に立つ翡翠花魁が、
自分のために若旦那様へ
名前を伝えてくれたということ。
そして何より、
あの深い、薄い青色の瞳。
わたしの好きな空の色。
思い出すだけで、
体の奥がじわりと熱くなる。
「だめ、だよ……」
唯衣は自分の両頬を、
冷たい手でぎゅっと挟み込んだ。
ここは吉原。
男も女も、一夜限りの嘘を買い、
夢の如く楽しむ場所。
お姐さんたちだって、
座敷ではどんなに甘い言葉を囁いても、
一歩外へ出ればすっぱりと割り切っている。
若旦那様のあの言葉だって、
「可愛い新米をからかっただけ」の、
粋な戯れ(夢)なのかもしれない。
本気にするなんて、野暮の極みだ。
それに
若旦那は翡翠花魁が気に入っていらっしゃる。
「はぁ……」
ごろりと転がって窓の外を見る。
月がキレイだ。
分かっている。
何度も何度も、
自分に言い聞かせる。
けれど。
……それでも、いい。
唯衣はゆっくりと身を起こし、
自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
もし、
若旦那様のあの言葉が、
この街の冷たい「嘘」だったとしても。
わたしの名前を呼んでくれた。
あの瞬間の熱だけは、
わたしの心の中に残った本物だ。
客に媚びるための音じゃないと言ってくれた。
また聞きに来ると言ってくれた。
「嘘でも、夢でもいい……」
あの薄い青色の空のような瞳に、
もう一度、見つめてもらえるなら。
わたしは、
何度でもあの人のために三味線を弾こう。
この街のルールになんて、
今はまだ、折り合いはつけられない。
だって、もう、
あのお方の姿が頭から離れないのだから。
わたし……
あの若旦那様が、お好きなんだ。
吉原の夜風が、静かに窓を叩く。
自分が踏み込んでしまった、
甘くて苦い「初恋」という名の泥沼。
唯衣は恐怖よりも、
愛おしさに胸を震わせながら、
大切そうに三味線を抱きしめた。




