52 0-1の致死量欠陥
エドが、ナイジェルと共に貧民街へ入ったのは午前十一時半ごろ。
ちょうど軍隊鼠(MGR)が地下下水道から貧民街に溢れ出てきた直後である。
イザベラが貧民街へ入ってから三十分ほど後のことだ。
二人はここ数日、仕事終わりに貧民街を歩き回っていた。
ナイジェルは背中に木製の長弓、腰に矢筒を下げている。
エドの方はいつもの肩掛け鞄。武器の携帯は無いように見えるが、鞄の中には刃渡り十五センチほどの突小剣が入っている。ナイフというよりは金属片に近い粗悪品だが、持っている物の中では一番殺傷能力の高いものだ。
南地区ではすでに騒ぎが起きていたが、二人のいる娼館付近、貧民街の中央地区までは伝わっていない。
エドの視覚型の魔力探知の『目』には引っかかっていないのは当然として、遠距離型の魔術師であるというナイジェルの方もまだ何も感じ取ってはいなかった。
武器の携帯はエドが言い出したことで、起こるだろう『騒ぎ』に対するものだ。
エドが言っていた騒ぎはどうやら軍隊鼠(MGR)のこととなりそうなのだが、それをベイトマンにも、ナイジェルにもまだ説明していなかった。
「だから説明しなかったんですよ」
エドはうんざりとして、『今日も』またうんざりと、目の前の巨人族の元騎士を見る。
ベイトマンとケイトの父娘が寄食の面々と共に通りに立って、貧民街の住民たちに声をかけているのだ。
「危ないから南地区には行かないで」
「近日中に南地区で騒ぎが起こるそうだ! 命が惜しいのなら北に向かえ!」
おいおいおいおい。
エドが最初この光景を見た二日前には、愕然としてorzになった。理解のできない状況に言葉を失った。
「何をしてんだ」
子供らしさを忘れた口調に、巨人族の男は自信満々に答えたのだ。
「何か良からぬことが起こるのだろう。では皆がそれに遭わぬようにすればよい」
と。
「騒ぎが起こるまで北に逃げておけと言いましたよね」
との問には、
「うむ! 正確にはこの中間地点より南には立ち入るなとな! だから儂らは他の者にも呼びかけておるのだ!」
これをどう評価すればいいのか。エドには分からない。
無茶苦茶になってきたのは、ハッキリとわかった。嫌になってきた。
「ケイ?」
最後の良心に、いや理性にすがるように十代半ばの娘に意見を求めたが、
「エドのことは信頼しているわ」
といい笑顔を返された。
そんな信頼関係は無いとか、何を根拠に行動しているのだとか、色々と言いたいことはある。
あるが、小心者の少年は、骨髄反射的に思ったことは、
逃げちまうか。
という、ことだった。
『計画』が完全に破綻しそうな気配に、すぐさま『損切り』をしろと心の声が確かにした。
ベイトマンとケイト、それに三十人の寄食の面々。彼らは確かにエドの『計画』がやっと形になってきた結果だった。
だが、昨日、決定的に、寸前まで、尻をまくって逃げそうな出来事が起こっている。
通りで騒いでいたこの父娘の元に、ついに盗賊ギルドがやってきたのだ。
結果だけ言うと、父娘は、正確に言うと、ほぼベイトマンが五人の構成員をブチのめした。二対五でありながら殺さずに無力化したのはさすがだと言えるが、どうせなら皆殺しにして口を封じてくれればよかったのにと、エドは話を聞いて率直に思った。
どーすんべか。
『損切り』すると言っても、何もベイトマン達の口封じをしようと言うわけでもない。
単純に騒ぎが収まるまで、貧民街に近づかなければいいだけだ。
ベイトマン達の『善意』が続くことはないだろう。それは精神的な意味でなく、物理的に。
なにせ相手は二百人の構成員と、三百年続く貧困である。
今いる寄食の三十人だって盗賊ギルドとのトラブルとなれば離れるに決まっている。今の段階でも幾人かは逃げているかもしれない。いや、この三十人はこの貧民街でも最弱者であれば逃げ道はないか。だが荒事においては、そんなものはいてもいなくても同じことだ。
結果、脳筋のこのオッサンでは近々ぶつ切りにされて、娘の方は無力化されて娼婦堕ちが妥当なところ。
こちらに累が及ぶ前にスタコラサッサがいいような気がする。
でも、こんな『良い人材』がまた手に入るとは限らんし。心情的にも惜しい気がする。
エドはうーんと悩みながら、左右にウロウロと反復移動を繰り返す。
長身痩躯の灰魔術師はそんな六歳児をなんとなく見下ろしていた。
「なにしてんだ?」
「考えてんですよ」
つけんどんな言葉にも、ナイジェルは特に気にした様子もなくフーンと眺めている。
「何を?」
「チッ」
舌打ちをして、質問にはそれ以上答えなかった。
『損切り』をしないのであれば、とにかく騒ぎまでは時間を稼がなければならない。
そして、騒ぎに乗じてある程度『計画』を実行しなければならない。
このまま動き出せば、計画的な行動よりもアドリブの連続になりそうだ。
では、計画に齟齬はないのか?
それを頭の中で、再検討を始める。
だが、それでも、もうすでにエドの中ではある程度の確信はあった。
だいたいが、この数日、盗賊ギルドとの直接接触の翌日となっても、武器を携帯して、こうして貧民街に入っているのが証拠だ。
You が can できるなら、doしちゃいな。である。
俯いて身体を折り、あー、と溜息をつきながら、あとは決断の問題だと把握する。
「大丈夫か?」
という、名目上の師の言葉に、
「大丈夫ない」
と答える。そして、ぐっと背中を反らして心を決めた。でも思い出した。
「あー最悪だ」
「何が?」
「離婚した元嫁さんから慰謝料を取り立てられる時の気持ち」
「わけがわからんな」
「僕にもわからん」
しかし、何かに追われているときは、やらなきゃいけないことをごまかせるわけで。
それだけが、この状況の良かった効果と言えなくもなくもない。そんなわけがない。
「殴られるのは確定として、それが何発か」
「?」
「さて、それじゃあ南地区に向かいましょうか」
「南に? 近づくなって言ってたろ? 自分で」
「危ないですからね。でもこうなったら動けるのは僕らだけだし。騒ぎが起きるのがいつ頃かを見に行きます。回収したいものもありますし」
「うーん、南地区って盗賊ギルドの拠点になってるんだろ?」
「ギルトの長が住んでいるらしいですね。見たことないですけど」
エドはベイトマンとケイトに手を振って別れると、二人がいる通りから路地に入った。
エドなら悠々と通れるが、大人のナイジェルでは身体を斜めにしなければならない。
足元は紫色の腐泥が歩くたびに湿った音をたてた。
「ええい、クソ。汚いな」
エドが悪態をつきながら、進路を邪魔する腐ったトタン板などを手で払いのけて、それを足場に進んでいく。
「なんだ、随分と余裕がなくなってきたんじゃね?」
普段の丁寧な言葉遣いが保てなくなってきた六歳児。余裕がなくなってきているのはわかる。しかし今のほうが打ち解けた感じでナイジェルとしてはいいのではないかとも思う。
ナイジェルは立ち止まった。
前がつっかえていたからだ。
路地の出口で足を止めたエドを訝しげに見る。
「ああ、そりゃないよ」
その言葉が何を呪って出たものかはまだわからない。
だから何気なく痩身長駆の男は顔を上げた。その路地の向こうに、呑気は消し飛ぶ光景が広がっていた。




