幼馴染の苦悩と本音と涙
その日は朝から天気が悪かった。
昨日の球技大会では驚く程快晴だったが、今日は朝から生憎の空模様……雨だった。
昨日、ななは一人で家に帰ってしまったが、ほんの数分後に晃輔が家に着くと、いつものなな……とは少し違うが、大分元のななに戻っていた。
心配かけてごめんね大丈夫よ、とななは言っていたが、いつものななとは明らかに違い、まるで生気が感じられなかった。
昨日の球技大会が終わってそろそろ一日経つのだが、ななは全然元気が無い。
朝食も昼食もななとは一緒に食べたが、会話することは殆ど無く、正直全然楽しくなかった。
当の本人であるななは、リビングのソファに座りぼーっと外の景色を眺めている。
どれだけの時間が経ったのだろうか、なながぼーっとしてから相当の時間が経った。
晃輔が心配そうにななを見つめていると、なながゆっくりと口を開いた。
「ごめんね、昨日は。晃輔に嫌な気持ちにさせちゃったね」
弱々しい笑みを浮かべるななは、フッと軽めの風に吹かれただけで溶けて消えそうだった。
「なな……」
晃輔は無言でななが座っているソファに座り、ななの手を握る。
突然のことに処理が追いついていないのか、驚いた表情で晃輔を見て何度か瞬きを繰り返していたが、やがて処理が追いついたらしく、すぐに弱々しいななに戻った。
「女の子には優しくしなくちゃだめよ」
ななは弱々しくそう告げた。
晃輔はななの手を握ったまま包み込むように手首から掌に握る場所を移動させた。
包み込むように握ると、へにゃりとななの眉尻が下がる。
「……ごめんね」
ななは二度目の謝罪の言葉を口にする。
「……嫌だよねこんな空気じゃ……」
そう口にしたななの顔は誰がどう見ても辛そうで、晃輔はなんて声を掛けていいか分からず押し黙ってしまう。
すると、ななは静かに語り始めた。
「……そうだね……昨日晃輔が聞いたことは、別に珍しい話じゃないんだよ」
昨日晃輔が聞いたこと、というのはあの女子たちの会話の内容のことだろう。
あれが珍しくはないなんて、女子の世界は一体どうなっているのだろう。
「珍しい話じゃないって……」
「うん。まぁ、女子の世界だとありがちなことかな……晃輔は驚いたでしょ?」
「そりゃあ……」
「普段はあそこまで露骨な陰口……いや、あれはもう悪口かな、しっかり私に聞こえてたし……」
ななは静かに続ける。
「でもね、流石にあそこまで露骨な悪口は、普段は聞かないんだけどね……」
「………………」
「いや、聞かないようにしてるのかもね。自分を守るために」
ななはそう告げると自虐的に笑った。
その様子に晃輔の心臓が締め付けられる。
悪口や陰口を聞かないようにしているのは、恐らく身体がななを守ろうとしている。一種の防衛反応だろう。
「……高校に入ってからね……いや、まぁ梨香子や希実たちと関わるようになってからかな。ああ言う陰口や悪口を言われるようになったの」
「……希実たちと関わりはじめてから?」
「まぁ……そうね。その頃からかな?」
「……どうしていきなり」
陰口や悪口を言われるようになった時期が、どうして希実や石見たちと関わり始めてからになるのか。
「まぁ、気に入らないんじゃないかしら。梨香子や潮谷たちと一緒にいるのが」
ななは力なく笑ってそう告げる。
晃輔にはよく分からないが、ななは思うところがあったらしい。
「最初はあんまり気にしてなかったのよ。女子だったら、必ず一回は通るものだろうし……放っておいたらいずれ飽きて自然消滅してくれるかなって……」
「…………」
「でも、全然収まんなくてね……暴力沙汰っていうのは無かったんだけど、ああ言う陰口や悪口みたいなのが長期間続くのはちょっとね……私なんかしたのかなって……最初はそう思ってたよ。だから聞いてみたの、私が何か悪いことしたの? もし、してたら謝るからって」
暴力沙汰にはならなかったとしても、晃輔たちが聞いたあの悪意が長期間続いていたとしたら……正直ゾッとする話だ。
「そしたらね、別に私が悪いことしたわけじゃないらしくて……」
「……じゃあなんで?」
ななが何か悪い事をしたのならまだ分かるのだが、ななが悪い事をしたわけではないのに、悪意の言葉の刃を向けられる筋合いは無いはずだ。
「端的に言うとね、羨ましかったんだって、私が」
「羨ましい?」
「ほら、梨香子たちっていわゆるスクールカーストの上位の人たちでしょ。そこに私が加わったのが気に入らなかったらしいんだ。梨香子たちと一緒にいれば自分もカースト上位に入れるって、そう思っているみたいでね」
ななは当時の事を思い出しているのか、辛そうな顔で話を続ける。
「その時は、まだ私は完璧美少女って言われていなかったからね。まぁ、クラスのアイドルとは言われていたけど……当時はすでに、勉強も運動もそれなりにできていたから……そういうのもあるんじゃないかな?」
「……石見たちのグループに入ったななが羨ましいから……何でもできるななが羨ましいからって……そんな理由であんな悪質なことを……」
そこまで言って、晃輔は気付いた。
「……それって、嫉妬だよな」
気付いて、晃輔は思った。
ななはたまたま石見たちと仲良くなっただけで、自身の容姿に胡坐をかくことなく、成績や運動もちゃんと努力していたから、皆に好かれるようになっただけで。
嫉妬している、だからといって何をやっても許されるわけではないだろう。
「そうだね……嫉妬……だと思うよ。羨ましい。私だけずるいって思ったんじゃない?」
苦々しい表情で告げるななは、やはり見ていて辛そうだ。
晃輔は、自分の胸が締め付けられるような、そんな気がした。
気付けば、口の中に僅かに鉄の味が広がっていた。
どうやらななの話を聞きながら無意識の内に唇を噛みきっていたらしく、小さな痛みと独特の風味が口の中にある。
「正直、いい気分はしなかったよ、ずっと……」
ななは一旦話を止め、大きく深呼吸をするとまた話を続けた。
「だからね思ったんだ。勉強も運動も完璧にこなせば、人当たりも良くて優しい完璧な子になれれば……梨香子たちと一緒にいても何もおかしくない、違和感のないそんな人間なれば、ああいう憎まれ口とか叩かれないかなって思ってね……」
ななは静かにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから、いっぱい努力した。勉強もテストで頑張って良い成績出して、運動も受験生で忙しがったあおいに協力してもらって」
晃輔はななの話を聞いて、あおいが、なながテスト前になると毎夜遅くまで頑張って無理をしてしまう、そんな話を聞いた時どうしてそこまで頑張る必要が有るのか、晃輔には分からなかったが、今それをやっと理解した。
「そしたら、いつの間にか完璧美少女なんて言われるようになってて、いつの間にか悪口や陰口を言われることは少なくなっていった、かな……」
晃輔はななの話を聞いて、ななが完璧美少女と言われるようになった理由も理解した。
「でも、今度は完璧美少女になったことで、陰口や悪口を言われ始めた……もうキリがないから、なるべく聞かないようにしてたけどね……」
恐らくななは自分でそうなるように仕向けたのだ。
完璧美少女になることで沈静化できると考えて。
でも、それが逆に仇となってしまった、それが恐らく今回のような……。
「放置してたのよ。しばらくはね……まさかあんなタイミングで聞くことになるとはね……」
悲痛な顔でそう告げるななに、晃輔は気になっていたことを尋ねた。
「なぁ、希実や石見たちに相談とかはしなかったのか……?」
「できないよ、流石に……みんなを巻き込んじゃうし」
即答だった。
「人に迷惑なんてかけられないもの……」
そう告げるななから感じたのは、人に迷惑を掛けたくない、巻き込みたくない、というななの持つ優しさだった。
「私の、数少ない、っていうのはちょっとおかしいけど、大切な友達たちだから、巻き込みたくない。少なくとも、今は、昨日聞いた私に対する悪口は自分で撒いたタネが原因だから」
話し始めてからずっとテンションは低いが、そこだけは、ななは力強く告げたが、またすぐに辛そうな表情に戻った。
「……なな」
こんな状態のななを放っておいたら、本当に空気に溶けるように簡単に消えてしまいそうで、晃輔はソファに置いてあったにブランケットをななの頭からかけた。
「……晃輔?」
顔まで影が差すようにして隠すと、それから戸惑うななを腕の中に収めた。
初めて自ら抱き締めた体は、とても華奢で頼りなかった。
少しでも力を込めてしまえば、簡単に折れてしまうのではないかと。
「……」
他の人に相談などせず、誰にも寄りかからずに一人で耐えてきたななの体を、晃輔は無言でしっかりと抱き寄せて包み込む。
すると、ななの動揺した声が聞こえてきた。
「え、こ、晃輔……?」
「……呆れた」
「……え?」
「……何でさ、お前がこういうふうになったのか、理由分かった気がする」
「家事ができないってこと?」
ななは自虐的に笑う。
「なんでだよ……アホみたいに我慢強くて、全然人に頼らずに、他人に弱いところを見せない、そういうところだ」
話を聞いて分かった、我慢せざるを得なかったのだ。
誰かに、助けを求めればいいものの、優しい過ぎるななの心が、それを許さなかったのだろう。
一度弱音を吐き出してしまえば、確実に折れてしまうから。
それを自分でも分かっていたから。
「晃輔にも見せてると思うけど?」
「そうかもな……」
ななの持つ優しさのために、誰にも助け求めず、ななは一人で頑張って耐え続けたから、いつの間にか、こんなにも自分を偽るのがうまくなってしまったのだろう。
「……ったく、お人好し過ぎるんだよ、バカ。何が人に迷惑掛けたくないだ……別にさ、お前のやり方が間違っているとは思っちゃいないけどさ、けど、お前はもう少し人を頼れ。頼らなさ過ぎるんだよ」
昔の晃輔は、他人だ。
でも、今は一緒に暮らしている。
頼って良いはずだ。
「お前は一人じゃないんだから」
晃輔は今にも壊れそうななをしっかり見据えて、告げた。
「……見て見ぬ振りしてるから、だから、泣くなら泣けよ。そんなひどい顔してるのに我慢したって、辛いだけだろ」
本当なら、泣かせたくはない。
乱暴な言い方になってしまったが、このまま我慢を溜め続けていれば、そのうちななは壊れてしまう。
本当は辛いのに、苦しいのに、それを一人で抱え込んで、その苦しみに誰も気付けずに、徐々に徐々に心が廃れて壊れていってしまう。
「……………………」
そんなのは絶対に嫌だった。
だから、泣いてほしい。
今まで我慢してたもの全て吐き出してほしい。
それが今の晃輔の本音だった。
「……いいの?」
「嫌ならこんなことは言わない。ここに、ちょうど良いのがあるんだから」
それが、ななにとって余計なお世話になるのではないかとそんな事もちらりと頭の隅を掠めたりもした。
「……だから」
晃輔がそう告げる時には、ななの目にはもう透明な何かが溢れる寸前だった。
ななが晃輔の腕の中でもぞりと動き、晃輔の胸に自ら顔を埋めたので、大丈夫だろうと思い晃輔は再度ななを抱きよせる。
「……他の人には言わないでね……」
「ん。俺は何も見てない」
「ふふ……ありがと……じゃあ、ちょっとだけ……ちょっとだけ貸してくれる?」
震える声でそう呟いたななに晃輔は返事はしなかった。
晃輔は、無言で頭からかけたブランケットをもう一度深くかけさせて、憔悴しきっている、頼りない背中をななのしっかりと抱きしめた。
すると、晃輔の腕の中で小さな嗚咽と小さな泣き声が聞こえ始めた。
いつでも嘆かずに完璧美少女というプレッシャーを抱えて、たった一人で耐え続けたななが、初めて、本当に初めて、まともに晃輔に求めた。
晃輔の腕の中で泣くななからは、私を支えて、という小さな願いを感じて、晃輔もななのそれに涙目になりながらもななの小さな背中を抱きしめた。




