第88話:次世代への星図
昭和三十五年(一九六〇年)春。
南米チンボラソ山の軌道エレベーターが第一フェーズの稼働を開始し、地球と宇宙の間に強靭な「へその緒」が物理的に繋がってから数ヶ月。
人類の宇宙に対する価値観は、すでに決定的なパラダイムシフトを迎えていた。
アポロ計画で月面に星条旗を立てたアメリカの宇宙飛行士たちが、人類の英雄として凱旋してからわずか一年後。
今度は九条の軌道エレベーターと定期連絡船を利用した、各国の「民間企業」のエンジニアや建設作業員たちが、飛行機に乗るような軽装で次々と月面へ向かっているのだ。
アメリカが莫大な税金と命を懸けて切り開いた「神聖なる神の領域」は、すでに九条芳信が主催する『月面ラリー選手権』のコースレイアウトと、観客用ホテルの巨大な造成工事現場へと成り下がっていた。
帝都・品川の九条自動車、地下深層部。
そこには、月面の六分の一重力と真空空間を擬似的に再現するための、巨大な遠心力相殺型のシミュレーション設備が新設されていた。
「ぐっ……! またスラスターの噴射が遅れた!」
カプセルの中で、赤星健が苛立たしげに呻く。
空力を一切使わず、小型スラスターの三次元的噴射だけでマシンの姿勢を制御する『宇宙船の操縦』は、地球上でどれほど天才的な反射神経を持つドライバーであっても、完全に未知の領域であった。
「力むな、赤星。重力がないということは、一度滑り出した質量は自力では絶対に止まらないということだ。……先を読め。コンマ五秒先の慣性を計算してスラスターを吹かせ」
教官である神谷蒼が、外部モニターを見ながら冷徹に指示を飛ばす。
だが、神谷自身の眼もまた、かつてない強烈な飢えと歓喜にギラギラと輝いていた。
「教官、口で言うのは簡単ですがね……! これ、本当に人間業ですか!?」
氷室涼が汗だくになりながらシミュレーターから這い出してくる。
「人間業でなければ、俺たちが新しい『人間』の基準になるだけのことよ。……次は私ね」
橘マキが、乱れた髪を束ね直しながら涼しい顔でカプセルへ向かう。
彼らは皆、かつてない絶望的な難易度に苦戦しながらも、その顔に浮かんでいるのは極上の「おもちゃ」を与えられた子供のような、純粋な熱狂であった。
そのシミュレーション室の分厚い防音ガラスの向こう側。
芳信は、妻の綾子と共にその様子を満足げに見下ろしていた。
「……相変わらず、嬉しそうね。あなたも、あの四人も」
綾子が微笑みながら芳信を見上げる。
「あいつらが使い物にならなければ、俺が自分で月に乗り込んで運転するつもりだったが……どうやらその必要はなさそうだ。四人とも、確実に『六分の一の物理法則』に順応し始めている」
芳信が不敵に笑ったその時。
「お父様」
二人の足元で、澄んだ声が響いた。
芳信と綾子の一粒種である、五歳になった長男・光信である。
彼は、芳信の書斎から持ち出した無垢のチタン合金で作られた重いギア(歯車)のパーツを、小さな両手で抱えるように持っていた。
「どうした、光信。それは重いだろう。落とすと足の骨が折れるぞ」
芳信が忠告すると、光信は不思議そうに小首を傾げた。
「お父様。この歯車、地球だととっても重いけど、お月様に行ったら軽くなるんでしょ?」
「ああ、そうだ。地球の六分の一の重さになる」
「じゃあ、お月様でこれを足に落としても、骨は折れない?」
五歳の子供らしい無邪気な質問。
だが、その直後に光信の口から紡がれた言葉に、芳信は目を見開いた。
「……でも、重さが六分の一になっても、この歯車の中身のギュッて詰まってる量(質量)は変わらないんだよね。だったら、お月様でこれを持ったまま速く走って壁にぶつかったら、やっぱり地球と同じくらい『痛い』んじゃないの?」
「質量」と「重量(重力)」。
二つの決定的な違いを、たった五歳の子供が、本能的かつ正確に理解していたのだ。
芳信の唇が、ゆっくりと、獰猛な歓喜の弧を描いた。
芳信はしゃがみ込み、光信の頭を乱暴に撫でた。
「……その通りだ、光信。重力というペテンに騙されるな。宇宙のどこへ行こうと、絶対的なのは『質量』と『速度』だけだ。それが分かっているなら、お前はどこへ行っても極上の車を造れる」
光信は褒められたことが嬉しいのか、ニコッと笑って重いギアを抱え直した。
綾子もまた、そんな親子のやり取りを見て、呆れたように、しかし愛おしそうに目を細めていた。
「……血は争えないわね。この子にとって、宇宙はすでに当たり前の『遊び場』みたい」
「それでいい。俺たちの世代で重力の天井をぶち破り、インフラを整備しておく。……この子が大人になる頃には、地球も月も、ただの退屈な『近所』に過ぎなくなる」
芳信は立ち上がり、ガラスの向こうで狂気的なシミュレーション訓練を続ける自らの「牙」たちを見つめた。
冷徹な兄・秀一が敷いた政治と経済の檻が、地球全体を平和という名の支配下で縛り上げる中。
果てしない速度の夢を追い続ける弟・芳信は、その平和というキャンバスの上に、宇宙空間をも巻き込んだ狂熱のブラックマークを刻み込もうとしている。
「待っていろ、静寂の星よ。……俺の造った最高の機械と、最高の狂人たちが、すぐにお前の砂を掻き回しに行ってやる」
九条芳信と、彼が創り上げた使徒たちが歩む、果てしない熱狂のハイウェイ。
その道標は、地球の重力を完全に振り切り、次なる次元の星の海へと一直線に伸びていた。




