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オーバー・レブ・ヒストリー 〜車を愛し過ぎた少年の国家魔改造録〜  作者: tky
第6章:天空の覇権と、継承される狂熱

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第87話:月面でのモータースポーツ宣言

昭和三十四年(一九五九年)春。


アポロ計画による人類の月面到達から約一年が経過し、世界の構図はかつてないほどに歪で、そして安定した状態にあった。


アメリカ合衆国が莫大な国家予算を投じて月面に立てた星条旗の横には、すでに九条の無人重機たちが整地した、広大な月面基地の基礎が広がっている。


「宇宙開発のインフラは、すべて九条が握る」。


その絶対的な現実を前に、世界の覇権国家たちは無意味な軍拡競争から降り、九条の敷いたルールの下で「いかに利益と技術的恩恵を享受するか」という経済競争へと完全にシフトしていた。


南米チンボラソ山の山頂では、宇宙から降ろされたカーボンナノチューブのケーブルが大地に固定され「軌道エレベーター」の建設が驚異的なスピードで進んでいる。


そんな中、帝都・品川の九条本社大ホールには、世界中から数百名に及ぶメディアと各国の関係者が集められていた。


九条芳信による、前代未聞の「重大発表」が行われるというのだ。


「……本日はお集まりいただき、感謝いたします」


無数のフラッシュが瞬く中、芳信がマイクの前に立った。


隣には、涼しい顔で腕を組む秀一の姿がある。


芳信は手元の原稿を見ることもなく、ただ退屈そうに記者たちを見渡した。


「我が九条自動車、および九条レーシング・ディビジョン(KRD)は、これまでアスファルトのサーキット、砂漠、そして雪と氷の世界など、地球上のありとあらゆる過酷な路面を制覇してきました。……ですが、結論から言えば、地球でのレースはもはや我々にとって退屈なテスト走行に過ぎません」


芳信の傲慢な発言に、記者たちの間からざわめきが起こる。


「重力1G、そして大気という空気抵抗が存在するこの星の枠内では、これ以上の飛躍的な速度の進化は望めない。……そこで、私は次なるモータースポーツの舞台を用意しました」


芳信は背後の巨大スクリーンを指差した。


そこに映し出されたのは、美しい青い地球ではなく、荒涼とした灰色のクレーターが連なる、月面の映像だった。


「重力六分の一、空気抵抗ゼロの真空、そしてガラスの破片のように鋭利なレゴリス(月の砂)に覆われた、究極のオフロード。……来年、我々は世界初の『月面ラリー選手権ムーン・ラリー』を開催いたします」


ホールの空気が、一瞬だけ完全に凍りついた。


次の瞬間、爆発的な怒号と質問の嵐が巻き起こる。


「月に車を持ち込んでレースをするだと!? 狂っているのか!」


「人間を月に送るだけでも命懸けのアポロ計画を見ただろう! そんなところでモータースポーツなど、技術的にも物理的にも不可能だ!」


殺到する記者の叫びに対し、芳信は薄く笑った。


「不可能? あなた方はまだ、古い化学ロケットの常識に縛られているようですね。……南米のチンボラソ山で建設中の『軌道エレベーター』第一フェーズが、年内には稼働を開始します。人間も機材も、エレベーターと定期連絡船を使えば、飛行機で海外旅行へ行くように安全に月へ向かうことができます」


「しかし、動力はどうするつもりだ! 内燃機関エンジンは、酸素がなければ燃焼しないはずだ!」


技術系雑誌の記者が食い下がると、芳信の瞳にエンジニアとしての狂信的な光が宿った。


「酸化剤(液体酸素)を積めば真空でもエンジンは回せますが、それでは重量が嵩む。……だからこそ、ル・マンで実証したフライホイールとモーター駆動による『完全電動化システム』の出番です。空気抵抗がゼロの世界で、車がいかにしてトラクションを生み出し、加速するか。これ以上の実験場はありません」


芳信は両手を広げ、世界に向かって狂気の招待状を叩きつけた。


「これは実験であり、闘争です。世界中の自動車メーカーよ、地球の重力という温るま湯に浸かっているのが嫌なら、私の用意した月面の砂場へ車を持ち込んでみろ。……最も狂った速度を見せた者に、私は最大の敬意を払いましょう」


同時刻。


品川のKRDガレージでは、神谷蒼、赤星健、氷室涼、そして橘マキの四人が、テレビ中継で芳信の会見を見つめていた。


彼らの目の前には、すでに芳信が描き上げた月面専用マシンのプロトタイプモデルが置かれている。


「……とうとう、俺たちを地球から叩き出すつもりらしいな、あの人は」


赤星が、プロトタイプの異様な形状を見下ろしながら呟いた。


「驚いたか? だが、理屈を聞けば絶望するぞ」


ガレージの奥から、白衣を着た真田源と、油まみれの黒木伝蔵が歩み寄ってくる。


「いいか、お前ら。月面は真空だ。つまり、これまでお前たちを地面に押し付けていた『空気抵抗ダウンフォース』という魔法が一切使えない。ウイングはただの鉄の重りになる」


黒木がプロトタイプを指差しながら、酷薄に笑う。


「空気抵抗がないということは、最高速は無限に伸びる。だが、ブレーキペダルを踏んでも、空力ブレーキがないから容易には止まれない。しかも重力は六分の一だ。タイヤが路面に押し付けられる力も六分の一になり、圧倒的にトラクションが不足する」


「……つまり、車体がポンポン跳ねて、少しでもステアリング操作を誤れば、そのまま宇宙空間に向かって飛んでいくってことか?」


氷室が顔を引きつらせると、真田が眼鏡を押し上げながら頷いた。


「その通りです。だからこそ、ダウンフォースの代わりに、車体の四隅に姿勢制御用の『小型圧縮ガス・スラスター』を配置します。お前たちは、走行しながら足でペダルを踏み、手でステアリングを回し、同時に指先でスラスターを制御して空中の姿勢をコントロールすることになります」


真田の無機質な宣告に、四人の牙たちは息を呑んだ。


それはもはや自動車の運転ではなく、三次元空間における宇宙船の操縦に近い、常軌を逸したマルチタスクの要求であった。


「しかも、月のレゴリスは風化していないため、刃物のように鋭利です。普通のゴムタイヤでは数分で削り取られてしまう」


真田がタブレットを操作すると、特殊な構造のタイヤの図面が表示された。


「ピアノ線とチタンで編み込まれた『金属メッシュタイヤ』です。これでレゴリスを鷲掴みにし、スラスターで姿勢を保ちながら、真空のクレーターを時速二百キロで走り抜けてもらいます」


圧倒的な難易度と、未知の物理法則。


少しでも失敗すれば、重力のない世界で岩盤に激突するか、真空の宇宙へ放り出されて命を落とす、真の死のレース。


だが。


「……最高だ」


沈黙を破ったのは、絶対的エースである神谷蒼の、地の底から響くような歓喜の声だった。


「重力という枷から解き放たれ、ダウンフォースの誤魔化しも効かない。純粋なマシンの質量と、それを操る人間の反射神経だけが問われる世界。……ついに社長は、俺の限界を測るための最高の盤面を用意してくれた」


神谷の瞳には、死への恐怖など微塵もなく、ただ未知の速度に対する純粋な飢えだけが燃え盛っていた。


その姿を見た赤星、氷室、マキの三人もまた、自らの内に眠る狂熱が引きずり出されるのを感じていた。


「上等だ。月の砂の上だろうが、俺の軽量化の哲学が一番速いってことを証明してやるよ」


「直線のモーターの出力設定は、俺に任せろ。真空の月面を一番長く飛ぶのは俺のマシンだ」


「女の知性が、宇宙の物理法則にどこまで通用するか……試してみる価値はあるわね」


世界が宇宙開発を「国家の威信」や「科学的探究」と真面目に捉え、莫大な税金を注ぎ込んでいる中で。


九条芳信と、彼が創り上げた狂熱の使徒たちだけは、広大な宇宙空間を「最高の遊び場」として認識し、牙を研ぎ澄ませていた。


モータースポーツという名の熱狂は、ついに地球の重力を振り切り、静寂なる星の海へとその舞台を移そうとしていた。

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